FROZEN考察ブログ

映画FROZEN(アナと雪の女王)の考察ブログ

FROZEN2予想 エルサの正体と姉妹の結末

【注意】この記事はFROZEN2のネタバレ、予想を含みます。また、予想は個人的なものですのでご理解下さい。

 

 

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ふたつの「歌」について

 

こちらのツイートを見て、私はある仮説を立てました。

 

 

以前からFROZEN2には「エルサにしか聞こえない歌声」が登場すること、また「アナと雪の女王2 アナ、エルサとしんぴの川」という本から「イデュナの子守唄」についての情報はありました。

 

おそらくこの二つは別のものであり、先程紹介したツイートの歌声は「エルサにしか聞こえない歌声」と思われます。

そう考える理由は、歌声の後に「Is somebody calling my name?(誰か私の名前を呼んでる?)」というエルサのセリフが入っているからです。

また映像の「歌声」を聴く限り、歌詞はなく音階のみのようですが、イデュナの子守歌には以下の歌詞があるようなので、この二つは違うものである・・・というよりも、私はこの歌声はエルサを呼ぶための「ヨイク」であると考えています。

 

「アナ、エルサとしんぴの川」原題 Anna,Elsa and the Secret River

「どこかに流れる、神秘の川。
白い川は、過去の秘密を、すべて知っている」

エルサとアナが幼いころに、お母さんが歌ってくれた子守唄。

白く輝く、魔法の川。果たしてこの川は、本当に実在するもの??

小さなアナとエルサは、エルサがなぜ魔法を使えるのかの答えをみつけるために、

こっそり城から抜け出し、その川を探しに、魔法の森に入ったのだが・・・

はたして二人は、神秘の川を、みつけられるのかしら?

honto.jp

この「イデュナの子守唄」についてはD23expo2019でも触れられたようです。

D23expo2019のFROZEN2情報についてはこちらの記事が詳しく書かれていますので是非ご参照ください。


ikyosuke.hatenablog.com

 

 「エルサにだけ聞こえる歌声」-エルサの「正体」とは-

ヨイクとは、サーミのシャーマンであるノアイデが精霊界との交信を行うための歌唱法であり、ブロードウェイ版のFROZENでは、イデュナがヨイクを唱えトロールをアレンデール城まで呼び出しています。

基本的にヨイクには現代の私たちが考えるような「歌詞」はなく、その音や音階そのものが情報を含んだ一種の言葉であると思われます。

 

ブロードウェイ版FROZENについてはこちらの記事をご参照ください。ヨイクやイデュナの出身、トロールについてなど説明がなされています。


ikyosuke.hatenablog.com

 

ツイートの動画に収録されている「歌」は、美しい音階の呪文のように聞こえます。

ヨイクに「呼ばれる」のはトロールのような「精霊」であり、少なくともFROZENの中でヨイクに「人間」が呼び出されることはありません。

つまり「エルサにだけに聞こえる歌声」がヨイクであるとするならば、

エルサの正体は人ではないということになります。

歌声は私たち視聴者には音階にしか聞こえませんが、エルサ本人は「名前を呼ばれた」と感じているようです。

また「Into the Unknown」という歌の中でも「自分はここに属していないのかもしれない」という感覚をエルサが抱いていることがD23で明かされました。

 

「白い川」とは何か

イデュナがエルサとアナに歌って聴かせる子守唄は「白い川」について言及するもののようです。

「アナ、エルサとしんぴの川」の作品紹介に記載のある歌詞は

 

どこかに流れる 神秘の川
白い川は 過去の秘密を すべて知っている

 

というものですが、私はこの「白い川」とは、アカシックレコードのような「記録の帯」ではないかと考えています。

エルサの役割や能力がrecord(記録を取ること)なのではないかというのは過去の記事で書きましたので、よろしければそちらもご覧下さい。


moonboat.hatenablog.com

 

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また、新たなキャラクターであるマティアス中尉は、彼の部隊と共に30年以上森の中で行方不明になっていたそうですが、身なりもきちんとしています。

「時間」というのは、ひとつポイントかもしれません。

30年前というと、アグナルとイデュナが出会った頃でしょうか。

イデュナはサーミ出身と思われますし、マティアスと会話するアナの手にはククサ(サーミの木製コップ)がありますので、あの森は北の遊牧民が暮らすエリアに近いのかもしれません。

ティザーにはサーミの少女らしき人物とアレンデールの服を着た少年が出てきましたが、あれはその頃の映像でしょうか。

私はあの少女がイデュナではないと思いますが、少女はイデュナの仲間であり、イデュナは少年を巻き上げた「風」の使い手なのではないかと思っています。

今日までに公開されているビジュアルには「風」がアナやエルサの旅路を導くかのように描かれていますが、あれはイデュナの魂のようなものなのかもしれません。

 

アレンデール兵の部隊は30年前、なぜあの森に入ったのか。

ティザーの少年が若き日のアグナルならば、彼を探しに、あるいは彼の護衛としてやって来たのでしょうか。

そしてなぜ、30年もの間森から出られないでいるのか。

アナが話している彼は本当に「現在」の人でしょうか。

また30年以上もの間「神隠し」のような状態のマティアス部隊は、トロールのことを思い起こさせます。

トロールはブロードウェイ版でHidden Folks(隠れた人々/隠された民)」と呼び名が変わり、より人間に近い姿をした精霊として登場するからです。

はたして彼らとトロールHidden Folks)には関わりがあるのか、今から楽しみですね。

 

姉妹が選ぶ結末はどんな形か

私は今までエルサとアナを、国王の父とノアイデの母を持つ「同じ条件のもとの同じ子供」というのを前提に「なぜエルサが選ばれたのか」を考えていましたが、そもそもそこが大きな間違いなのかもしれません。

エルサは最初から「こちら側に属していない存在」なのです。

 

果たして本当にエルサは「存在」しているのでしょうか。

「存在」とは、そもそもなんなのでしょうか。

もしかするとエルサは「白い記録の川の一部の現れ」であり「概念の産物」なのかもしれません。

 

王家を引き継ぐのも、ノアイデの能力を引き継ぐのも、エルサとアナ「二人いるのだから」どちらでも可能で、そのあたりの説明や説得力はどうするのだろうとずっと思っていましたが、3年という月日が経ち、アナが21歳になっているのは、ノアイデの能力で精霊であるエルサと繋がったままアナが戴冠する、ということなのかもしれません。

D23では「なぜアナがあのように生まれたのか」も判明する、と言及されたようですが、「あのように」とは一体どういう意味でしょうか。

もちろん、魔法が使えない、ということを指しているのだとは思いますが、はたしてそれだけなのでしょうか。

ひたむきにエルサを求め、どんなことがあっても離れないという、強い信念を持ったアナ。

 

When will you see yourself the way I see you?

 

これはD23で新たに公開されたアナの台詞ですが、私はこれが答えな気がします。

『 私が見るようにあなたが見る 』

エルサはアナの中に入り、二人は「いつまでも一緒に」アレンデールを導いていくのかもしれません。

エルサとアナは二人で一つなのですから。

お互いの容姿がとても近いのも、初めからそのためではないかと私は思います。

 

余談ですが、同じくD23で公開された「SOUL」のアートにもFROZEN2のシンボリックな「雪の結晶コンパス」が描かれています。

魂の世界を描き「Why am I here?(私はなぜここに存在するのか)」をテーマとした「SOUL」とFROZEN2の繋がり・・・私たちの世界がこれからどんな時代を迎えていくのか、だんだんと明るみに出てきたような気がしますね。

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「SOUL」のアート。FROZEN2のシンボルを探してみてくださいね。

 

 

筆者の考えるFROZENの世界観については、以下の関連記事もあわせてお読み頂けると幸いです。

moonboat.hatenablog.com

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新海誠作品「天気の子」の考察

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君の名は。」が大ヒットした新海誠監督。

最新作「天気の子」を観てまいりました。

このブログに書くのはFROZEN(アナと雪の女王)についてだけにしようと思っていましたが、他作品の感想・考察も書いてほしい、というお声をいただくようになりましたので、気まぐれに書くことにしました。よろしければお付き合いください。

 

さて。みんさんは新海誠作品をどうやって知られたでしょうか?

君の名は。」で初めて知って好きになったという方は、過去の新海作品、または今回の「天気の子」に違和感を持たれるかもしれません。

個人的には「君の名は。」が例外的であり、こう言ってしまうと失礼かもしれませんが、受け手の好き嫌いが分かれる新海作品の「クセ」の部分が、大衆向けにチューニング(これは宇多丸さんがそう表現されていたのですが、とてもわかりやすかったのでここでも使わせていただきます。宇多丸さんはこのクセがチューニングされたことを「消臭」とも表現されていました。参照:宇多丸、『天気の子』を語る!【映画評書き起こし2019.7.26放送】https://www.tbsradio.jp/394270 )されたためヒットしたのだと考えています。

そのため「天気の子」で通常運転に戻った「無修正の新海ワールド」に触れたとき「君の名は。」のイメージしか持たれていない方の中には、戸惑いや違和感を覚えた方もいると思います。

 

新海誠さんの作品には一貫したテーマがあり、それが独自の世界観で繰り返し描かれています。

基本的にはどの作品も「同じテーマ」と「同じ登場人物」で作られています。

テーマは「個人の願いと救済」もっと言うと、新海誠さん自身の願いと救済という、新海誠さんによる新海誠さんのための、極めて個人的な目的の作品群です。

このような自己救済・自己免罪のために毎度用いられるのが「世界の危機」と、主人公(新海誠さん自身)を徹底的に肯定する役割を担った「記号としての女の子」です。

基本的に、新海作品には悩める少年とそれをひたむきに支える少女が登場します。

しかし「主人公」は常に一人しかいません。

「天気の子」は帆高と陽奈の二人が主役でしょう?と思われるかもしれませんが、陽奈は帆高をどこまでも容認する「記号」として、つまり役割としてしか画面に存在しないので、個人的に「天気の子」は帆高の帆高のためのお話、つまり新海誠さんが新海誠さんを救うためのお話であり、私は「主人公は一人(新海誠さん本人)」だと思っています。


実際は「君の名は。」もそういう作りになっているのですが、三葉側の描写が瀧と分量的には同等に描かれ、生活の場所も互いの行動も半々で描かれていたので、そういう構造的なものの結果、三葉にも「主体」があるように見えていました。

そのためにそこまで「ん?」と感じずに観ることができ、たくさんの人が受け入れやすかったのだと思います。

 

帆高くんに都合よく話回りすぎじゃない?

帆高くん許されすぎじゃない?

てか周り犠牲払いすぎじゃない?

今回の「天気の子」は無修正の新海ワールドだったため、このような違和感が多くの方にはっきりと、体感としてわかっていただけると思うので、非常に書きやすいです。笑

 

「大人はわかってくれない」-The Catcher in the Ryeの世界-

 

この場所は俗物と欺瞞に満ちている。ここではないどこかへ行きたい。

「息苦しいんだ」

「帰りたくないんだ」

これは、帆高が繰り返しつぶやく言葉です。

東京に出てきた帆高は「The Catcher in the Rye(ライ麦畑つかまえて)」をバイブルのように持ち歩いています。

ちなみに帆高が故郷の離島で自転車を飛ばし(おそらく父親に殴られて家を飛び出し)「光の水溜り」の中に入りたいと追いかけるも崖に阻まれるシーンがありますが、「The Catcher in the Rye」でも、主人公の少年が殴られて世界に嫌気がさすシーンがあります。

ライ麦畑」とは大人たちのいない美しい世界のことで、少年はそこで遊ぶ無邪気な子供たちが崖から落ちそうになった時に捕まえられる「ライ麦畑のキャッチャー」に自分はなりたい、と願います。

「天気の子」に登場する「光の水溜り」とは、黄金色に輝く「ライ麦畑」を表しているのでしょう。

それを追いかけて帆高は東京へ向かい、そこで陽菜と出会います。

ある意味で陽菜は穂高を崖から落ちないよう捕まえた「ライ麦畑のキャッチャー」であり、少年を少年のまま留めておく役割を担っています。

「光の水溜り」(屋上の鳥居もそうですね)つまり「ライ麦畑」の中で出会う少年少女の、これはジュブナイル作品なのです。


こういう気持ちは、子供の頃は誰もが持っていたと思います。
子供の頃、世界の危機はいつだって目の前にありました。
気づいているのは自分だけ、だから、世界を救えるのも自分だけ。
大人に言っても聞く耳を持ってもらえない。

どんなに知らせても、大人はすぐそこにある奇跡や危機に気づこうとしません。

子供たちにとってそこは息苦しく、もっと、汚れていない場所へ行きたい。

ここではないどこかへ。

 

そうして行きついた東京の街も、理想だけを追いかける帆高には「こわい場所」でした。

しかし、須賀、夏美、陽菜、凪という疑似家族を得て、陽菜の力で街を「光の水溜り」にすることで、「東京」は次第に彼らが子供のまま過ごせる「ライ麦畑」となっていきます。

 

余談ですが、冒頭のフェリーのシーンや、東京の路地の上空に「雨の魚」を無意識に呼んでいるのは帆高なので、帆高は「雨男」と思われます。

登場人物の気持ち(内面)が世界の様相(外面)を変えてしまう「セカイ系」の作品のため、帆高が東京に来たことで雨は加速したのでしょう。

帆高の出身は伊豆諸島の「神津島」がモデルとされています。

古くは「神集島」と呼ばれ、神々が命の源である「水」を、どこにどれくらい配分するかを会議した「水配り」と呼ばれる伝説がある島です。

 

須田がフェリーに乗っていた理由。

船内に避難せず甲板にいた理由。

訪ねてきた帆高に「晴れ女」の取材をさせる理由。

夏美が須賀と帆高が似ていると話す理由。

須賀が不自然に泣く理由。

「もう一度あの人に会いたい」という帆高の叫びに、須賀が急に心変わりする理由。

 

これらの理由から、帆高と陽奈/須賀と明日花(亡くなった須賀の妻)が並立して描かれていることがわかります。

 

一応書いておきますと、須賀は神津島に「水配り」の取材に来たのでしょう。

須賀の娘の萌花は喘息があり、雨の日は体調を崩してしまいます。

東京は雨の日が続いていたので、須賀が取材で水や雨などの天候ネタを優先させるのは不自然なことではありません。

天候が崩れるので船内に戻るようアナウンスされたフェリーの甲板に、帆高と須賀だけが出ています。

これは帆高と須賀が、夏美の言うように似ている、つまり「同じ運命を背負った者」であることを示すための描写です。

帆高が無意識に呼んだ大きな「雨の魚」は、その後帆高が東京へやって来ると路地の上空にも現れます。

また須賀の亡くなった妻である明日花は「晴れ女」であったと思われるため、須賀は無意識に「晴れ女」の取材を帆高にすすめます。

陽菜が人柱となり晴れた東京で、須賀は半地下の事務所の窓を開けて水没させます。

その浸水の先に萌花の成長を刻んだ柱があり、その印は祖母に引き取られる2歳頃、つまり妻の明日花の死を境に終わっています。

妻の死、喘息の娘、人柱の結果としての晴れ、その残骸の水。

訪ねてきた刑事の安井が帆高について「そこまでして会いたいと思える人がいるのは羨ましい」と口にすると、須賀の目から不自然に涙があふれ出します。

ここで、妻の明日花が喘息の娘のために晴れを願い、人柱となって死んだことが観客にわかる作りになっています。

「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」について描くときに、キャラクターが意識と関係なく涙を流すのは「君の名は。」の瀧や三葉と同じで、新海作品の「パターン」のひとつです。

この「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」については後ほど書くことにします。

 

帆高と同じように須賀もかつては家出少年で、その先で明日花と「運命」的に出会い、周囲の反対を押し切って結ばれました。
しかしまたも「運命」により明日花は犠牲を払って消えてしまい、残された須賀はそれまでの出来事、帆高が言うところの「本当のこと」を忘れています。

新海作品には「運命」により「特殊な力を持った女性」には植物の名前がつくという「パターン」が見られます。

明日花、陽菜、おそらく萌花もそうでしょう。

君の名は。」の宮水家は、祖母から一葉、二葉、三葉、四葉と名前の漢字の他に、誰かと入れ替わるという「運命/特殊な力」も引き継いでいます。

ちなみに明日花の旧姓は「間宮」といい、宮水家と同様「宮」の字からわかるように、神事に関係のある家柄です。

陽菜の母親の病室にも「雨の魚」が入ってきますし、形見として引き継がれた「雨の石」のチョーカー(首輪)は陽菜が「晴れ女」の「お役目」から「解放」されると外れます。

 

神々の島からやって来た、空に選ばれた少年。

東京の廃ビルの屋上で、人類の人柱となった少女。
二人は運命的に出会い、世界の形を変えてしまう。

そしてその運命は、世代を超えて繰り返されている。

 

これが新海誠さんが毎回描いている「セカイ系」作品です。

 

そして世界を変えてしまうそのような力も、世界の秩序も、極めてざっくりとした神話に裏付けられています。

例えば今回の「天気の子」ならば、お盆(彼岸)という仏教的な考えと、人柱や自然現象に神を見る神道的な考え、精霊馬を鳥居に置いてしまうような部分も、取材先の神主が800年前の天井画を見せることで、神仏融合時代の話として

天災や地形の変化、それらと人の営みとの関係も、アントロポセンの文字を画面に映したり、瀧の祖母による「昔語り」によって

ストーリー全体の整合性も、光の水溜りを追って帆高が東京へ行き、結果として東京に大量の雨をもたらすということ自体が「水配り」であった、という風に・・・

とりあえずは「説明ができる」という体裁をとっています。

 

君の名は。」の瀧と三葉の名前は、日本神話のタキツヒコとミヅハノメから取っているのでしょうが、これはどちらも雨神ですし、また瀧と三葉は「天気の子」にも登場しているため、新海誠さんが常に神道イズムの力を借りて、個人的に描きたい、信じたいとしているものの説得力を、過去の作品と通して補強しようとしているのがわかります。

帆高はホタカミノミコトから、陽菜はアメノヒナトリノミコトがモデルでしょうが、その説明は序盤の「占い師」の口からなされています。

スサノオ」の妻であるクシナダヒメは、ヤマタノオロチへの生け贄、つまり「人柱」であったため、明日花が晴れ女であったことを裏付ける要素として「スサノオ」から「須賀」が、常に二人の女の子に囲まれている「凪」は、コノハナサクヤビメとイワナガヒメの姉妹に嫁がれる「ニニギ」からとられているのでしょう。

君の名は。」の終盤で登場する「須賀神社」はスサノオが祭神ですが、ホタカミノミコトを祭神にしているところもあり、須賀が帆高を庇護する流れも、一応は汲み取れます。

また神話だけではなく、既存の現代作品、具体的には宮崎駿監督の作品の力を借りて説明しようとしている箇所もあります。

千と千尋の神隠し」からは、千尋とハク(ニギハヤミコハクヌシ)の二人が過去に出会っていたという事実、そして忘れていた名前を思い出すというあの有名な落下のシーンが、雲の上から帆高と陽菜が落下するシーンとしてそのまま使われています。

ハクと千尋の「運命性」や「神話性」、湯婆婆(敵対する世界)に対しての「共に対峙する決意」を、帆高と陽菜に置き換え、再生しているのです。

また「雨の魚」は「崖の上のポニョ」からきていると思われますが、「崖の上のポニョ」自体が「ワルキューレ」がベースにされているためそもそもが神話的な上、ポニョが魔法の力を失って人間になることを宗介が受け入れるという流れは、晴れ女の役目を放棄した陽菜を帆高が受け入れるという形にそのまま対応しています。

 

このように、新海作品は神話や既存の物語の設定を多分に借り、説明的に使用しています。

こうしたオリジナル設定の乏しさ、ストーリーの構成的な精度の低さは、見る人の好みが分かれるところかもしれません。

 

話がそれましたが、ライ麦畑に戻ります。

当然この「ライ麦畑的な生活」は長くは続きません。

須賀と夏美もライ麦畑側の人間ではありますが、そこから出なくてはいけないとも感じています。

夏美が履歴書の志願理由に書いた「一員になりたい」という一文がフォーカスされることからもわかる通り、いつかはライ麦畑の外に出て行かなければ、社会の一員にはなれないのです。

 

「光の水溜り」=「ライ麦畑」と考えると、人柱となった陽菜が連れていかれた雲の上の草原は、まさに大きな光の水溜りであり、大人(他者)の存在しない、自分だけの、美しく独り善がりな世界です。

そこへ帆高がやってきて「共に崖から飛び降りる」ように陽菜に言います。

そして「ライ麦畑」から飛び降りた陽菜を、帆高は「崖の外で捕まえる」のです。

かつてライ麦畑のキャッチャーになることを夢見ていた少年は、地上にいる須賀と夏美の「子供」の部分を昇華するように連れて空へ行き、かわりにそこから陽菜を連れて地上へと落下していきます。

もうそこに、ライ麦畑がないとしても。

 

これが帆高が出した答えですが、この映画には問題があります。

帆高の選んだ答えが「東京の大水害」という、多くの人を巻き込んだ現実的な困難に結びついていることです。

「The Catcher in the Rye」は雨の中の安堵で終わりますが、「天気の子」も降り続く雨の中、アンサーソングの「大丈夫」が流れて終わります。

ライ麦畑から飛び出す=子供が社会の中へ出ていく時の葛藤は、通常世界を変えてしまうようなことはなく、子供たち自身の中で起こる変化です。

しかし新海作品は「セカイ系」のため、主人公の決断が世界の様相まで決定してしまいます。

このため、冨美、須賀、アンサーソングからの回答である「大丈夫」が、ライ麦畑の卒業という少年の選択に向けられたものなのか、個人の願いを優先した帆高の責任に対してのものなのかが曖昧になってしまいました。

また須賀や夏美が結果的に帆高に「代行」させただけで葛藤を昇華してしまう点や(もちろんその後のストーリーもあるでしょうが)、陽菜が同じ方を向いてくれなければ帆高は今もライ麦畑を選んでいただろうという点において、すべてが「都合がよく」出来ていてリアリティに欠けるということ、つまり新海誠さんの作品そのものが、未だ「ライ麦畑」を脱せていないことにより成立しなくなってしまっているという根本的な問題を抱えています。

 

「作品の問題点」-災害、正義、性の記号化-

「災害」の扱われ方について

個人の願いと世界の秩序。こうしたミクロなものとマクロなものが対比されて、個人の願いが世界の秩序に勝る、というのが、新海誠さんが繰り返し作り続けている作品の特徴です。
君の名では「死んだ」三葉を救いたいという個人の願いから、時を越え、過去を、未来を変えようとします。

だいぶチートでタブーなやり方ですが、これが受け入れられたのは、私たちに3.11の経験があるからでしょう。
彗星の落下で、一つの村が消滅する。
そこにあった景色、生活、命が、あの日なくなってしまったという経験。
もしも戻って災害を防げるなら?悲劇をなかったことにできるなら

大切な誰かを守れるなら?まだ、間に合うなら?
思いを共有できたから、瀧や三葉と共に、私たちは走っていたのだと思います。
しかしこれは決して現実的ではありません。

だから批判があるのは当然で、あるべきだと私も思います。
命は、都合よく戻ったりはしません。フィクションではないからです。
しかしあの時、仮初めでも私たちはスクリーンの中でひとつの村を守ることができました。

3.11で私たちに植えつけられた無力感が、あの一時だけ消えたのかもしれません。


こんな風に「君の名は。」は絶妙に「新海色」が消臭された作品でした。
そこに細やかな風景描写とキャッチーな音楽、少年少女の一途な想いが重なり、大ヒットしたのだと思います。
「天気の子」も消臭されていないだけで中身は同じです。
しかし前作でひとつの村を救った「私たち」は、今回は二分されているでしょう。

世界の秩序より個人の願いを優先させたのは、瀧と三葉/帆高と陽奈、どちらも同じです。
君の名は。」では、個人の願い(過去をなかったことにする、つまり現実を受け入れないことにすること)が「災害を未然に防ぐこと」とイコールだったため問題点がわかりにくくなっていた部分が、「天気の子」では個人の願い(帆高と陽奈が一緒にいること)vs世界の秩序(東京の大水害)という、「どちらを取るか」という構図がわかりやすくなっていたので、世界を壊してでも突っ走れ少年少女派と、いい加減大人になれ少年少女派で観客も分かれたのでしょう。
ミクロな願いを選んだ場合、前回は災害を未然に防ぎましたが、今回は災害を招くことになり、しかもそれがリアルな東京の街として描かれています。

私がこの映画で一番問題だと思ったのは、瀧の祖母である冨美の台詞です。
私は、これは冨美に言わせては一番いけなかった言葉だと個人的に思いました。
帆高たちの行動により、冨美の家は水没し生活を奪われてしまいました。
しかし冨美の口から「元々は海だった。だから元に戻っただけ」という、災害を甘んじて受け入れるような発言が「帆高(新海監督)の免罪符」として発せられます。
また須賀からも「気にするな。世界は元から狂っている」と免罪され、帆高はその二人の免罪を唱えながら陽奈と再会、そしてアンサーソングの「大丈夫」が流れ、映画は終わります。
徹底的に帆高(新海監督)は免罪され、救済されるようになっているのです。


実際の被災者である冨美の口から「仕方のないことだった」と言わせ、救われようとするやり方は、私は好きになれませんし、問題があると感じました。
それは被災者が決めることであり、自己の免罪には使ってはいけないのではないかと感じたからです。
こうした自己免罪・自己救済のため映画作りを続けているため、新海作品が苦手だという人が一定数存在するのは理解できます。 

 

「アントロポセン的な」冨美の「昔語り」と、衛星的視点からの「水没した東京」の画は、日本神話の「国生み」を表しているのでしょう。

雲の上の草原、日本神話でいうところの「高天原」に上がり、そこで結ばれた帆高(ホタカミノミコト)と陽菜(アメノヒナトリノミコト)が地上へ下る。

そこでは穢れた大人たちによる現代社会の象徴「東京」が、「雨」で「浄化」されています。

繰り返される神話に裏付けされた「大丈夫」には、リアリティのある努力を私たちが選択するという余地はないのです。

 

「正義と悪の単純化」について

正義を果たすべきキーアイテムとして「銃」が登場します。

これは現代社会において極めて問題がある設定だと思いますし、おそらく最も批判される点だと思いますが、古典的、典型的な男性性の象徴、特に「少年(新海誠さん)」の個人的なコンプレックスとして登場することは理解できます。

心理的に銃は男性性の象徴であり、強い大人たち(警察)に対抗する力を非力な少年に与えるものです。

ナイフで刺したり拳で殴るなどの直接的な行動は相手と一対一で向き合わなくてはならず、また実際に反動が体感として得られるため「力」を感じたいときに使われますが、銃のように離れた場所から多勢の状況を支配できる武器は、力に自信がなく行動に伴う責任から目を背けたいときに使われます。

「警察」も「児童相談所」も「大人(須賀)」も「迷惑をかけずに生きているぼくたち」を放っておいてはくれず、それぞれを引き離そうとする分からず屋の「悪」として描かれています。

なぜなら大人たちは本当のことを知らず、また知ろうとしないので、彼らの理解者にはなり得ないのです。

自分たちの世界の境界で危機に直面した少年少女は、全力で彼らに抗わなくてはなりません。

少年期の感覚として、これは経験者の多い感覚かもしれません。

この愚かさは少年に安易に世界へと銃口を向けさせ、引き金を引くよう囁きます。

世界を変えられる力が、彼らにはあるはずなのです。

そして世界を変える責任も、運命も、彼らのその小さすぎる肩に乗っています。

少年期の世界観とは、そのようなものかもしれません。

 

これは一種のリアリティある感覚や経験ではありますが、必ずしも「リアル」であるとは限りません。

警察も児童相談所も周りの大人たちも、実際には子供たちに耳を貸し、助けてくれる場合もあります。

また「正しい」と思うことを果たすためなら、銃を使っても、警察に追われても、社会のルールを破っても行動するべきという描き方は、現実の私たちに与えるメッセージとしては極めて大きな危うさを持っているでしょう。

君の名は。」で発電所を爆破するという破壊行為が肯定的に描かれたときもこの点は問題になりましたが、「正義」を成し遂げる困難さの強調として「犯罪」や「破壊行為」を持ち出すという安易性と危険性は、批判され続ける必要があると思います。

「女性の記号化」ジェンダーの描かれ方について

君の名は。」でも「天気の子」でも、特殊な力を持っているという点で、女性キャラクターにも主体性があるように誤解されがちですが、彼女たちは「巫女」という、まさに「献身」のための存在でしかありません。

また「天気の子」ではフェリーの甲板で帆高が「禊の雨」を受けていますが、これは神の歓迎を示す事象のため、天(アメ)に選ばれ東京へ遣わされているのは、陽菜ではなく帆高です。

彼女たちは主人公である少年に対して理想的に動き、物語をサポートする「人柱」として常に一方的な犠牲を払わされています。

そしてどんなに犠牲を払っても、彼女たちは主人公の少年を「好き」であり、彼らの決断を支持し、自らの存在が彼らのおかげであると感謝さえします。

そして女性が「眺める対象」として描かれる部分も、新海作品に批判がある理由の一つでしょう。

陽菜の体を見て「風俗には向いていない」と言う帆高のセリフや、夏美のセックスシンボル的な描かれ方などは、少年のリビドーとしては健全かもしれません。

しかしこのような男性の理想としての女性像、つまり現実とは異なる「記号としての女性」が未だに描かれ、消費され続けることが「日本では受け入れられている」のだと受け取られることが対外的にどのような意味を持つのかは、私たちひとりひとり、関わる企業の一つ一つが、真剣に考えなくてはならないことだと思います。

 「凪」というキャラクターと「子供の貧困」について

ここで、個人的に良かったと思う点も書いておきたいと思います。

私は「子供たちの貧困」が描かれたことは良かったのではないかと思います。

個人的に「天気の子」で一番好きなキャラクターは凪です。

「イメージされた現代的で都会的な男の子」ではありますが、リアリティのある部分もあるからです。

可憐な容姿と女の子たちに対する人心掌握術に長けたませた小学生、というのは、一見単純に見えますが、彼は「貧困」を隠していません。

サバイバル・スキルとして小綺麗な身なりと容姿、そしてコミュニケーション能力を意識的に身につけ活用していますが、その姿のまま安売りのネギを買って帰り、児童相談所に保護されたことも女の子たちに素直に知らせています。

女の子たちも凪を評価するときに家庭的な事情(経済的な事情)には関心がないように見えます。

「貧困」は彼らにとってもはや日常の一つであり、上辺だけの「虚構」も生き抜くすべとして甘受しているように見えるのです。

この点において凪は帆高とは対極的なキャラクターであり、世界が欺瞞に満ちていることを既に受け止めながら、それでも陽菜との小さな「ライ麦畑」を汚さないように守って生きているように思えます。

「陽菜と一緒ならどこでもいい」というのは彼の世界の真理であり、全てなのでしょう。

このアンバランスさがむしろ作中最もリアリティを持ったキャラクターに思えました。

 

帆高と違い、陽菜の個人性が貧困の犠牲になっていることを理解していますが、それを世の中の理不尽のせいにせず、大人になって自分が支えられるようになること(それまでは心配をかけないように明るく振る舞うこと)、姉を独り占めするのではなく帆高が入ってきて姉が個人の人生を少しでも充実させられるのならそれを支持するという、現実的な痛みを伴った選択をする一方、女の子たちを利用しても姉を取り戻すという自分本位な部分も持っています。

帆高が陽菜を理想の象徴として縋っているのとは違い、自らの人生の答えとして陽菜の重要性を凪は持っているからです。

作中描かれている「子供の貧困」もイメージされた部分が多いかもしれませんし、少年少女の純心性を際立たせるために選んだ題材であれば真新しさはありませんが、それでもこの凪を貧困の中で描いたことを私は好ましく思います。

 「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」-少年期の「喪失感」の処理の仕方-

新海作品の主人公は、いつも大きな「喪失感」を抱いています。

少年期の喪失感を大人になっても抱き続けているキャラクターはビールとタバコに溺れるという、新海作品の「パターン」があります。

例えば「秒速5センチメートル」の遠野、「天気の子」の須賀などです。

少年期の「喪失感」が作り出す「ここではないどこか」や「運命の相手」の存在を「ないのだ」と捉えることを徹底的に拒絶し「あるのだ」としてしまったのが、新海誠作品の最大の「こじらせポイント」であると私は考えています。

新海ワールドでは「ここではないどこか」も「運命の相手」も存在しています。

少年少女が見ているのは本当に「世界の真の姿」であって、大人たちは「見えていない、忘れている」のです。

そして少年少女に「本当のこと」を「見えなくさせようとするもの」、大人たちに「思い出させないようにしているもの」とは、スピリチュアル的な、宇宙の法則のような大きな力であり、私たちの世界ではそれが太古の昔から繰り返されている・・・

つまり、我々は生きた神話の中にいて、私たちは「神話そのもの」である、ということです。

これはもう、少年期の「喪失感」とはなんの関係もない話なのですが、なぜか「喪失感」の「正体」として「神話」が使われてしまっています。

「運命」に遭遇するも「神話的な力」により消されてしまったその記憶が「思い出せず」涙を流す、瀧や須賀。

彼らの「喪失感」は「本当」であって、それは酷く意地悪で残酷なカミサマが見えなくしてしまった「現実」なのです。

 

新海誠さんが「大人としての責任がある作品を作れない」と言われるのは、ここではないかと、私は思っています。

おそらくご本人が未だ少年期の「喪失感」を解消できずに抱き続けていて、その答えとして「神話」を見つけてしまったこと。

「本当のこと」をみんなに教えてあげることが、ご自身の使命であり、運命であり、喪失感を癒やす唯一の方法であると、今もひとり「神話」の中を走り続けていらっしゃるのではないでしょうか。

少年でいるための「ライ麦畑」を自ら作り出せるようになってしまった大人は、永遠に少年でいるしかないのかもしれません。

「アナと雪の女王」は「竹取物語」か

私は高校の古典の授業で「竹取物語は日本最古のUFO襲来物語です」と習いました。笑

 

古典の先生曰く、それを示す描写は

 

「天上人が地球にやって来ると、夜なのに隣の人の毛穴が見えるほど眩しく光った」

→当時あかりといえば松明程度しかなく、暗闇で人の毛穴さえ見えるほどの強烈な光源を作り出すことは地上の技術では不可能である。

「天上人は宙に浮いている」

→天上人は反重力技術を使っている。

かぐや姫は瞬時に実体を光に変えることができ、帝も本当に彼女が人間ではないのだと知る」

→テレポーテーション。

「天上人は地上人(翁のような老人も)のことを「幼き者」と呼ぶ」

→上から目線。天上人にとって地上人は知能的にか時間の感覚が違うのか「幼い」状態に見える。地上人よりは崇高な存在らしい。

「不死の薬と衣で記憶をリセット。思案も停止する」

→地球上のことは覚えていると都合が悪いらしい。

 

などいくつもあります。

たしかに「月が地球のような惑星であり、そこに住民がいる」という設定は、当時の人の発想ですがSFさながらです。これが単なる想像であるとすればすごいですよね。

それとも実際にお話の元になるような出来事があったのでしょうか。

 

私はずっと、アグナル国王の「Conceal, don’t feel.(隠さなくてはいけない、感じてもいけない)」という言い聞かせと「エルサを人目から隠す」という方針は

『エルサが“ナニカ”に見つかるのを恐れている』

からなのかもしれないと感じていました。

その一方で、アグナルはエルサに戴冠式を迎えさることにも心血を注いでおり、これは矛盾があるように見えます。

単にエルサを群衆の目から隠したいだけなら、いくらでも理由をつけて代わりにアナを戴冠させることはできるはずです。

しかしそうしないのは、それではいけない理由があるのでしょう。

どうしてもエルサを戴冠させなくてはいけない理由とは、一体なんでしょうか。

 

アナと雪の女王」は、もしかすると「竹取物語」のようなお話なのかもしれません。

エルサは天上界からやってきたか、あるいは昔、天上界からきた“ナニカ”がトロールの力を借りて地上の人の中に「隠れて」いて、エルサはそれを受け継いでいるのかもしれません。

戴冠して「地上の人」にならなければ、エルサが天上界に連れ帰られてしまうとしたら?

だから是が非でもエルサを戴冠させなくてはいけないのかもしれません。

そしてその日まで、決して“ナニカ”に見つかってはいけないし、エルサも気づいてはいけない…

 

高畑勲版のかぐや姫では、かぐや姫が「こんなところ(地上)は嫌だ、還りたい」と一瞬でも願ってしまったために、自分の正体を思い出し、同時に天上人に見つかってしまいました。

エルサも自分の力の「真実」を知りたいと真相に近づくほどに「自分自身を含む全てを失う危険を冒す」のかもしれません。

 

還るはずだったもの(エルサ)が還らず地上にあって、力を増していけば世界の均衡は崩れるかもしれませんし、エルサが「生きるはずだった人生」から逸れてしまうと、一体なにが起きるのでしょうか。


………戴冠式の日にあんなに月が近かったのは、もしかしたらこのせいかもしれませんね。

 

信じるか信じないかは、あなた次第です。笑

4エレメントとエルサ

 

4エレメント(四元素)

私はFROZEN2に頻繁に登場するひし形の結晶は4エレメント(四元素)を表しているのではないかと考えています。

4エレメント(四元素)とは、世界の物質が「火」「空気(風)」「水」「土」の4つの元素から構成されているとする概念です。

 四つの元素は具体的な物体というわけではなく、物質の状態を示します。

たとえば「プラトンの輪」と呼ばれる周期的循環現象では、「火」は凝結すると「空気(風)」に、「空気(風)」は液化すると「水」に、「水」は固化すると「土」になり、「土」が昇華すると「火」になるとされます。(逆方向の変化もあります。)

 

四元素はエンペドクレス、プラトンアリストテレスなどの哲学者が唱えたほか、インドや中国をはじめ西洋以外の国々でも類似した考え方が存在しますが、私はFROZEN2がこのうちの誰の、またはどこ地域の四元素説を基盤としているかということは重要視していません。

おそらく世界の均衡を脅かしてしまうような秘密がエルサの中にあるということを描くために4エレメント(四元素)を題材にしたのであって、実際にこの四元素説の真偽を解明することは目的ではないでしょう。

 

4つの結晶は、それぞれ微妙に異なる色をしており、異なる文様が刻まれています。

この文様はルーン文字ではないかといわれていますが、私はルーン文字以外にも4エレメントのシンボルも参考にされていると考えています。

 

錬金術における四元素のシンボル

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4エレメントのシンボルを解説する図

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馬(NOKK)は「水」、木の葉と曲線は「空気(風)」、巨人(ゴーレム)は「土」を表していると考えられます。

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海面を走るエルサの足元が凍る際、色が微妙に異なるように見えます。

これは4エレメントの色に対応しているように見えます。

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エルサの両手から発せられ、霧散した「力」が結晶化します。

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これらの場面から、4つのエレメントはエルサの中から発せられているように見えます。

また、トレーラーの映像では「火」の描かれ方がその他のエレメントとは異なる印象を受けます。

単に今回の映像に出てこないだけかもしれませんが、水→土→風と魔法を変化させながらエルサが楽しく歌っているように見える場面で、「火」は確認できません。

 

「火」らしきものが登場するときは、それがエルサとオラフを取り囲んでいたり、森の木々に燃え移り人々が慌てているなど、あまり好ましい場面ではないようです。

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「火」は他の3エレメントよりも上位に位置していると言われます。

4つの性質のなかで最も軽く微細なため、生成や消滅が終焉する先のエレメントとされているからです。

また「火」と「水」は対照的なエレメントであると同時に相補的な関係にあり、互いに引き合い結合することによってものを生み出すことができるとされています。

エルサにとって「火」のエレメントは他の3つのエレメントよりもコントロールしにくいものなのかもしれません。

 

エルサの魔法は雪や氷なのでは?と思われるかもしれませんが、先述したように4エレメントは物体そのものではなく、物質に状態(性質)を与えるものです。

エルサは噴水の水を凍らせることができます。

また空気中から雪を生み出すこともできます。

これは流動性のあるものや揮発性のあるものを固定化させていると言い換えることもできるかもしれません。

その逆が可能なら、固体を液化したり気化したりすることもできるはずです。

またイスラム教やキリスト教の考えでは

四元素の働きは神が定めた規則に拠っているとされています。

世界とは、今この瞬間の、あらゆる物資の「状態」に過ぎないのです。

(これは極めて仏教的な考えともいえます。結局のところ全ての宗教は同じ事象を解説しているに過ぎないのだと私は考えています。)

4エレメントをコントロールできるということは、この世界の在り方を決定するということなのです。

 

「愛」がエレメントを結合させる

私が4つの結晶が4エレメントを表すのではないかと考える理由の一つに、石柱のデザインがあります。

下記の画像はSF映画フィフス・エレメント」に登場する4エレメントの石柱と「FROZEN2」で描かれる石柱の比較画像です。

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エレメントが「石柱」の形をしていることや、根元に平行な線が彫られているところが同じです。

私は、4エレメントがこの世界に石柱として実在しているということを言いたいわけではありません。

映画や小説などの創作活動・表現活動において、それが「4エレメントを表している」と観客に伝わることが重要なため、このような共通するデザインが用いられているのだと考えています。

 

エレメントの混合と分解を可能にする動的な力として、元素を結合させるものが「愛」であり、分解させるものが「憎」であるという考えがあります。

エンペドクレスによると、宇宙のプロセスは「愛の完全支配期→憎の伸長期→憎の完全支配期→愛の伸長期」の四つの段階が円環的な周期でめぐっており、二つの伸長期には、4元素は可視的な事象・生物となって生成し、消滅するとされています。

もしかすると我々はこのどちらかの伸長期におり、過渡期の「導き」としてエルサがいるのかもしれません。

個人的には今が愛の伸長期であることを願っていますし、そう感じています。

 

話がそれましたが、この「愛」がFROZEN2に関わってくるか考えてみます。

一作目のキーワードは「True Love(真実の愛)」でした。

「愛」というキーワードにエルサが深く納得した様子を示すと、力の制御が利くようになり、大解氷に繋がります。

「愛」によりエレメント同士を結合させ、安定させることができたのかもしれません。

 

また、ラストシーンではエルサがアナに「氷のスケート靴」を与えますが、これはアンデルセンの原作「雪の女王」の一場面でもあります。

作中のカイは寒さを感じることがありません。

原作的には、エルサがカイで、アナがゲルダです。

題名でもある雪の女王についてはあまり描写がなく、雪の女王の意図も不明なままです。

 

FROZENは原作の原型がほとんどないと言われることもありますが、私は重要な点は原作に沿って作られているのではないかと考えています。

以下は、個人的に原作と共通すると考えている点です。

 

アンデルセンの『雪の女王

あるとき天から「悪魔の鏡」が落ちてきてその破片がカイの目と心臓に刺さり、カイの心が凍ってしまいます。

雪の女王に出会ったカイは、家族やゲルダのことも記憶から消えてしまい、女王と共にゲルダのもとを去ってしまいます。

雪の女王の宮殿にいるカイは、女王の接吻により寒さを吸い取られてしまっているため、寒さを感じることがありません。

その状態で、カイは雪の女王から「永遠」という言葉を作り出すように言われます。

その言葉を作ることができれば、カイは「自由」になれると言うのです。

そしてカイが「永遠」という言葉をつくることができたなら「世界全体とスケート靴」を与えてくれる、と言いました。

 

原作での雪の女王は、カイに何かを強制したり、宮殿を出て行くカイを引き止めたりはしません。

「悪魔の鏡」も雪の女王の持ち物ではなく、あくまでも雪の女王はカイとゲルダの行動を傍観しているだけで、直接的な関与はしないのです。

 

FROZENでは最後に「雪の女王からスケート靴が与えられた」ため、カイ(エルサ)は「自由」となり、「永遠」を作り出すことができるようになった結果、「世界全体」を与えられたとも捉えることができます。

このためブロードウェイ版ではスケート靴を与えるシーンがない代わりに「Elsa,you are FREE.」とアナが言うのだと私は考えています。

 

「愛」を得たことでエルサは内なる4エレメントを結合させることが可能になったのでしょうか?

だとしたら、それは果たしていいことなのでしょうか。

それとも、新たな危機を招いてしまうことになるのでしょうか。

 

トレーラーの最後に登場するNOVEMBERの文字は、向かって右側から不自然にフェードアウトしていき、意図的に「LOVE」の文字が残るような演出がされているようにも思えます。(THIS FALLは均一にフェードアウトします。)
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エルサはフィフス・エレメント

また4エレメントがテーマとして用いられる場合、フィフス・エレメントと呼ばれる第五元素が登場することがあります。

4エレメントが月下界(地上)の物質を構成するのに対し、天上界(宇宙)はこの第五元素が構成しているという考えです。

 

個人的に、第五元素とはなにか、というのは非常に難しい話だと思っています。

「プリマ・マテリア(第一質料)」と同一視されることがありますが、これを考えるにはプラトンの「イデア」やアリストテレスの「エイドス」と「ヒュレー」を考える必要があるからです。

しかし冒頭で述べたように、今回は誰の四元素説が元になっているかを特定したり、第五元素の証明をすることは重要ではありません。

FROZEN2を観終わった後、これらのことを詳しく落とし込まなくてはならなくなったら時は、そうしましょう。

きっとその必要が出てくるような話であるなら、映画そのものがその理解を助ける役割をしてくれるはずですから。

 

今回は映画のあらすじを予想するために、フィフス・エレメント(第五元素)が物語に登場するか、また、エルサ自身がフィフス・エレメントの可能性があるかを考えます。

 

天界を満たす「アイテール」

古代ギリシャにおいて「アイテール」「輝く空気の上層」「雲や月の領域」「ゼウスの支配する領域」を表す言葉として用いられ、これに対し下層の空気は「アーエール」と呼ばれていました。

このアイテールをアリストテレス四元素説を拡張し宇宙の構成を考える際に第五元素として提唱しました。

アイテールは語源上「常に輝き続けるもの」を意味しており、パルメニデスという古代ギリシャの哲学者は、アイテールを「大気の上の炎」「穏やかで希薄、一面に均一に広がるもの」と表現し、濃くて重い大地の物質と対比しました。

個人的に、アイテールのこの表現はオーロラに非常によく似ている印象を受けます。

またピュタゴラス教団はアイテールを「人の死後の魂が辿り着く汚れなき領域」としており、これは我々がイメージする天界に近い気がします。

エンペドクレスは、アイテールとはアーエールが高層の炎と触れて結晶化したものであり、魂はアイテールとアーエールの混合物であるとしました。

いずれにおいてもアイテールとは、地上の死すべきものの世界に対して永続的な世界を指し示しています。

これは雪の女王がカイに「永遠」という言葉を作ることができれば「自由」になれると語った内容に似ている気がします。

アイテールは天体の動きのように変形せずに永遠に回転し続ける性質を持ち、天界を満たしている物質として後世まで広く認知され、物理学や化学における「エーテル」の語源となりました。

 

このようなことから、フィフス・エレメント宇宙や魂、天界というテーマを描く題材として用いられることがあります。

また、創作物などでは「愛」フィフス・エレメントとして扱うこともあり、エレメントの石柱が登場する「フィフス・エレメント」という映画でも、「愛」がフィフス・エレメントとして位置づけられていました。

「愛」は4エレメントを結合させる動的なエネルギーであると同時に「第五元素」として描かれることがあるのです。

 

これらのことから、エルサ自体が「愛」を内包したフィフス・エレメントとして描かれる可能性はあります。

個人的にはフィフス・エレメントが登場しない場合でも、エルサの中の「愛」が重要な要素にはなるのだろうと考えいます。

そしてどうやら、天界や魂の存在とエルサは深く関わっているようです。

 

FROZEN2は私が当初考えていたよりも、ずっと大きなテーマを扱う予感がしています。

Official Trailerの考察

 

FROZENⅡ Official Teaser Trailer

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暗く荒れた海と石ころだらけの海岸

 

この場所はアイスランドがモデルになっているのではないかと言われています。

しかし私が注目しているのは、石ころだらけの海岸をエルサが裸足で走っていることです。

このことからエルサは内臓が健康な「内臓強い系女王」だということがわかります。

 

………冗談はさておき。笑

おそらくこの海はエルサがNOKKに力を試される場所の一つではないかと思いますが、なぜアイスランドなのでしょうか。

 

アイスランドはノース人の進行地です。

アレンデールのモデルはノルウェーとされていますから、エルサとアナはノース人であると思われます。

一方クリストフはトナカイを連れている点や服装などからサーミ人と考えられ、一作目では瀕死のアナを城に送り届けたにもかかわらず門を目の前で閉められてしまうなど、各所で描かれる・歌われる冷遇はそのためと思われます。

また一作目の冒頭に登場するアイスハーベスターたちも装いからサーミ人と考えられますが、氷の切り出しにばん馬を使用していることや、孤児のクリストフを助けるそぶりがない(おそらくトナカイのスヴェンを連れているため)など、定住生活を送っている湖サーミと呼ばれる人々ではないかと思います。

定住することと運搬業を担うこと(ラップ税という税金を納めること)でアレンデール(ノルウェー)の人間として認められていますが、ノース人とは軋轢があり、また彼ら固有のシャーマニックな文化はノース人から制圧の対象にされているため、アレンデールの戴冠式(ノース人の祝い事)には参加していないのでしょう。

またFROZEN2でアナが提げているバッグはノース人の民族衣装に似ており、FROZENが「二つの民族」を扱った作品であることがわかります。

(ただしノース人とサーミ人に人種的な違いは殆どありません)

 

そして日本語版の公式ポスターには

 

「なぜ、エルサに力は与えられたのか-」

 

と書かれており、エルサの力はなんらかの意図に

より「与えられたもの」だということが判明しました。

精霊NOKKもエルサの力を試し、エルサが「相応しい存在」であるかを見極めようとするようですので、エルサはなにか理由があって「選ばれている」のだということがわかります。

 

私はエルサが力を与えられたのは、エルサが「ハイブリッド」であるからではないかと思っています。

エルサの父親であるアグナル王の先祖、つまりアレンデール王家の人間は、過去に天から落ちてきた「月の石」(※便宜上今回はそう表記します)に当たり、トロールの施術を受けたのではないかと考えられています。(参考 https://ikyosuke.hatenablog.com/entry/2019/02/21/194956

またブロードウェイ版FROZENでは、イデュナ王妃がNorthern Nomadsという北方の遊牧民(おそらくサーミ)の出身であり、トロールと関わりを持った人物であることが明かされています。

このブロードウェイ版の設定は、Frozen Fever(エルサのサプライズ)において、エルサがクリストフの顔についたペンキを拭う動作がFixer Upper(愛さえあれば)でトロールがクリストフにする動作と同じであり、それをクリストフが不思議がっている描写や、Olaf's Frozen Adventure(家族の思い出)の屋根裏のシーンでアナがサーミの民族衣装を見つけるくだりなどで映画との関連性が示唆されています。

またブロードウェイ版でイデュナ王妃が遊牧民出身であることを告げると、トロール(ブロードウェイ版ではHidden Folks)に「それが今ではロイヤルね」とからかわれるシーンがあることから、遊牧民たちの社会的地位は低いことが伺えます。

つまりアグナルとイデュナは、民族と身分の違いを超えて夫婦となったようです。

 

そして月の石の直撃を受けた末裔と思われるアグナルにとどまらず、イデュナにも特殊な能力は備わっていると考えられます。

ブロードウェイ版でイデュナはHidden Folksと同種のペンダントを身につけており、ヨイク(サーミの歌唱法)を唱えて彼らを呼び出します。

ヨイクは「ノアイデ」と呼ばれるサーミのシャーマンが精霊界とコンタクトを取る際に用いられるものです。

全てのサーミ人がこのような能力を持っているわけではなく、ノアイデはサーミ文化において重要な役割を果たしています。

このことからイデュナは「ノアイデ」であると考えられ、エルサは月の石の直撃を受けた王家とノアイデの「ハイブリッド」ということになります。

 

ここまでくるといわゆる都市伝説的な流れになり抵抗を感じられる方もいらっしゃるかもしれませんが、私はエルサが宇宙()と地球人のハイブリッドである、というのはあながちありえない話ではないのではないかと考えています。

カッパドキアの洞窟教会のフレスコ壁画に描かれているイエスの誕生のように、天からきた「高次元のなにか」と「人類の第六感」が同居しているエルサの存在は、「力」を与えられるのに相応しい「器」だったのではないでしょうか。

 

エルサが「生きるはずだった人生」とは

 

また、エルサは旅の中で「自らが本来生きるはずだった人生」を知ることになるようですが、

それはつまり

現在のエルサは本来生きるはずだった人生から逸れてしまっている

ということになります。

そしてエルサがそれを知ることは「自分自身を含めた全てを失う危険を冒す」ことになるようです。

エルサが本来歩むはずだった人生というのは、一体どんなものでしょうか。

 

私は、ヒントは一作目にあるのではないかと考えています。

トロールの長パビーが、まだ子供だったエルサと両親に見せたあのビジョンです。

そこではエルサの魔法について以下の説明がなされていました。

 

◆魔法の力はどんどん強くなる

◆美しいが危険をはらんだ力である

◆「恐れ」が敵となる

 

またパビーが空中に描いて見せたビジョンでは、成長したエルサらしき人物が魔法を操り、それを取り囲んだ群衆が歓喜していました。しかし魔法が不穏な色に変わると人々は恐怖し、その色が人々へ飛び火すると彼らはエルサらしき人物に襲いかかりました。

 

このシナリオが一作目で現実になったかというと、違和感が残ります。

パビーのビジョンでは「恐れ」は群衆に現れており、エルサらしき人物には認められません。

たしかにハンス率いる有志軍がエルサを捕らえる場面はありますが、「美女と野獣」の村人たちのように「エルサは危険だ!エルサを倒せ!」と民衆が奮い立つことはありませんでしたし、なにより「恐れ」と闘っていたのはエルサ自身でした。

では、このビジョンは一体なにを示しているのでしょうか。

 

映画とブロードウェイ版との関連性について先ほど述べましたが、ブロードウェイ版でエルサが歌う「Monster」という曲の歌詞では、エルサが「力」についてどのように感じているかが掘り下げられています。

(Monsterの歌詞を詳しく知りたい方はこちらの記事を参照してください https://ikyosuke.hatenablog.com/entry/2018/11/16/094928

 

Monsterの歌詞からわかる「力」の特徴

 

◆エルサの意思ではコントロールできない独立性がある

◆力は増幅していき、抑えるのにも限界がある

 

この事態に対しエルサは自死という選択も考えますが、思いとどまっています。

それは、生きていたいという思いからではなく、自分が死んで「力」だけが残り、取り返しのつかない事態になることを危惧しているからです。

そうならないためにエルサはまだ死ねないと決意しています。

 

エルサの体感として「力」は自身が死ぬと「器」から出てしまう可能性があり、その後も消えることなく禍を招く危険性があるのです。

 

更にこのことに関しては先日公開された公式トレーラーでも明らかになりました。

 

FROZENⅡ Official Trailer

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Elsa.The past is not what it seems.

エルサ、過去は思っているものとは違うようだ。

You must find the truth.

きみは真実を見つけなくてはいけない。

Go north,across the enchanted lands,and into the unknown.

北へ向かうのだ。魔法にかけられた土地を越え、未知の場所へと至れ。

But,be careful.

しかし気をつけろ。

We have always feared Elsa’s powers were too much for this world・・・

我々はエルサの力がこの世界には大き過ぎるのではないかと恐れてきたが・・・

Now,we must hope,

今は祈るしかない。

They are enough.

それらが十分であることを。

 

 

上記はパビーのセリフです。

今やエルサの力は世界のキャパシティを超えてしまうほど強大になっているようです。

 

私の考えですが、おそらくこれらの事態は本来もっと早く現実になるはずだったのではないでしょうか。

時と共に「力」は大きくなり、やがてエルサにも制御できなくなる。

恐怖した人々、あるい「力」そのものに、エルサは殺される。

しかし思いがけずアナが「真実の愛」をもってエルサを救い、エルサはコントロールを学び、今もまだ「生きて」います。

これは、本来のシナリオではないのかもしれません。

エルサは本来「何者」になるはずだったのでしょうか。

「生きるはずだった人生」と「思っていたものとは違う過去」とはいったいどんなものでしょう。

 

 

 トロールの正体とは

 

ここで、トロールについて私が立てた仮説を紹介します。

トロールはブロードウェイ版で「Hidden Folks」と呼び名が変更されており、より人に近い姿をしています。

これは演出上の都合もあるでしょうが、私はこの変更には意味があると思っています。

Hidden Folks」は直訳すると「隠れた人々/隠された民」というような意味ですが、私は、トロールとは石という「器」に過去に存在したある人々の「意識」が移された存在なのではないかと考えています。

私たち人類の歴史において、過去に幾度となく高度な文明が発生しては消えていきました。

今では解明・再現することができないような測量や建築などの、いわゆる「失われた技術」の痕跡は世界各地に見られます。

高度に発展した文明が、ある時点を境に跡形もなく歴史から消えてしまう不自然さを、私はずっと疑問に思ってきました。

疫病や戦争で滅んだ、という通説は、もちろん一部では事実であると思います。

しかし文明の一切が語り継がれることも引き継がれることもなくリセットされてしまうということが、はたして疫病や戦争だけで起こりえるのでしょうか。

もしかすると人類は、ある一定の水準に達した時点で別の場所に移動するということを繰り返しているのかもしれません。

肉体を捨て、意識体として、次の次元へと旅立っていく・・・それが突然人々や文明が消えたように見えたため「隠された民」と呼ばれるようになったのかもしれません。

 

また人類の発展は、本当に地球上の叡智だけでなり得たのでしょうか。

各地で信仰される様々な宗教と神話には、共通する事象を描いたと思われるものが多くあります。

エルサに与えられた「この世界には大き過ぎるほどの力」とは、どこからきたのでしょうか。

FROZEN2では、そのような「真実としての神話」、そしてこれから我々が直面する「これからの神話」が示されるのではないかと思っています。

 

 

謎の巨人について

 

また映像の最後では、一作目でエルサが作り出したマシュマロウにシルエットの似た巨大な物体が森を歩いています。

北欧神話やスカンディナビアの伝承には、巨人や石の精霊などが多く登場します。

また映像にたびたび登場する四つのクリスタルのようなものにはルーン文字に似た文様が刻まれており、そのひとつから「ジャイアント(巨人)」の登場を予想している方もいました。(参考

http://youtu.be/ryVdLROEkms )

 

私はこの巨人のヴィジュアルからゴーレム」を思い起こしました。

一般的にゴーレムは土人形のように思われていますが、石や青銅のものも存在します。

そしてこれは、トロールについて立てた仮説と整合性がとれるのではないかと感じました。

 

みなさんは、世界で最初の「ゴーレム」がなにかご存じでしょうか。

それは「アダム」です。

旧約聖書の創世記に記されている天地創造において、ヤハウェは土(ヘブライ語でアダマー)にルーアハ(聖霊)を吹き込みました。

創造主(ヤハウェ)によって創られた最初の人間の「アダム」は、自我を持った最初のゴーレムです。

 

この「器」に「魂」を吹き込む力が「神」であるなら、エルサはまさに「神」であるといえるのではないでしょうか。

 

トロール以外にも、映画とブロードウェイで変更されている部分があります。

それはオラフです。

オラフは登場時、あの見慣れた雪だるまの姿ではなく、姉妹の持っているおもちゃの組み合わせでつくられていました。

そこにエルサが魔法で「アナの一部とエルサの一部を移す」ことによって「命」が吹き込まれます。

エルサの力とは、雪や氷を作り出すことではなく「命」を吹き込むことであるとはっきりと示されているのです。

 

「器」と「魂」は切り離せるものである、という考えは、先述したサーミの宇宙観の特徴でもあります。

サーミの宇宙観では、世界は「現実世界」と、サイヴォ(Saivo)と呼ばれる「天界」、地下にある「死者の世界」の三つで構成されており、人間は「二つの魂」を持っているとされます。

一つ目は「生の魂」と呼ばれ、これが肉体から離れると「死」に至ります。

二つ目は「自由な魂」と呼ばれ、これは肉体から離れ、三つの世界の間を行き来することができます。

サーミのシャーマンであるノアイデは、この「自由な魂」の媒介者としての役割を担っており、ときに天上界と交信したり、死者の世界へ迷い込んでしまった「自由な魂」を探しにいったりします。

イデュナがノアイデであり、更にエルサがその能力を引き継いでいるとするなら、エルサが「魂」を切り離したり、移し替えたりできることがあったとしても不思議ではありません。

またエルサの「生の魂」が肉体から離れても「自由な魂」は「天界(Saivo)」に存在し続けるでしょう。

エルサにとって肉体の消滅、あるいは凍結は、必ずしも「死」ではないのかもしれません。

 

FROZEN2でエルサはどのような運命を受け入れ、選択するのでしょうか。

また我々人類の「命」とはどこからきて、どこへ向かうのでしょう。

 

公開までに、いろいろな覚悟が必要かもしれません。

 

余談ですが、北欧には雪の巨人が日の光に照らされて石になるとう話があるそうです。残念ながら私はこの話を知らないため詳しくはわかりません。どなたかご存じでしたら教えて頂けると嬉しいです。

北欧神話サーミの神話(ラップ神話)は別系統なのでなんともいえないのですが、サーミ創造神話では、太陽の息子が巨人の娘と恋に落ちて彼女を連れ去ったとき、それを追ってきた巨人の兄弟が日の光を浴びたことにより石化してしまうという話があります。

「光」によって「石化」するという話は、旧約聖書の創世記では「ソドムとゴモラ」のロトの妻にも見られます。ソドムとゴモラについては科学的な調査も行われていますので興味のある方は調べてみて下さい。

しかしこの場合、光は災いに近く、石化も良いイメージではありません。

個人的には、北欧の地理的に巨石が多いため、冬場に雪や氷で覆われていた石が夏の日差しで解かされ露出する様子が雪が日に当たり石に変わるように見えたのだろうと考えています。

またFROZENにおいて、一作目から「太陽の光」は重要なキーワードでした。

「太陽の光」はおそらくアナのメタファーであるため、仮に日の光に当たり雪が石になるのであるとすれば、それは悪いことではないような気がします。

 

雪(エルサ)を解かして消してしまう太陽の光(アナ)ですが、それにより雪を石という「永遠に近いもの」に変えるのだとすれば、この姉妹のお話は本当に壮大ですね。

 

 

【遊び】FROZEN2までに公開されるディズニー映画のラストシーンを予想する

2019年は

『アラジン』(6月7日公開)

トイ・ストーリー4』(7月12日公開)

ライオン・キング』(8月9日公開)

マレフィセント2』 (10月18日公開)

アナと雪の女王2』(11月22日公開)

の上映が予定されています。

(※上記の公開予定日は日本を基準にしています)

 

私はFROZEN2の公開に先立ち上映されるこれらの4作品のラストシーンが

「朝日が昇るシーン」

で終わるかどうか見届けるゲームを、ひとりでしています。笑

というのも、おそらくFROZEN2は「新時代の幕開け」を示す作品になるだろうと思っているからです。

そう思う理由は、作品内容が人類が目指す新たな形態を示唆するものになるのではないかという予想の他に、新ビジュアルのエルサのドレスのひとつがFROZEN(一作目)のLet It Goの終わりに登場する「朝焼け」の色をしているからです。

FROZEN2のグッズ(おそらくクリスマスに吊るす用の靴下)にも、青い服を着たエルサの背景には朝焼けが描かれています。

この淡く絶妙な色合いにしたのは、エルサが新時代の象徴的存在、つまり「天上界の神のような存在」になるからではないかと思っています。

 

「アラジン」→「トイ・ストーリー4」→「ライオン・キング」→「マレフィセント2」が新時代の到来を思わせる「朝日が昇るシーン」で終わり、FROZEN2のエルサが最後に「朝焼け色のドレス」で登場したら、ストーリー性があると思いませんか?笑

(あのドレスはエルサがNOKKの試験をパスし「Next Stage」に到達してからのものだと予想しています)

 

そこまで流れが考えられて作られていたら面白いですね。

はてさて、どうなるでしょう。

エルサの力が「氷」と「時間」そして「命」に関わっているように見える理由

エルサが一作目で見せたのは、国を凍らせ、解凍する力でした。
エルサは一国を冷凍して保存できることを示しめしました。
そしてラストには「解凍」をコントロールするスキルも手に入れています・・・準備はもう整ったのかもれません。

エルサの「解凍」は、ただ「冷凍」されたものを解かすだけではありません。
壊れた船は壊れる前の時点の元の姿まで戻っています。
エルサの「解凍」は「復元と再生」を意味しているのです。
また、エルサは時間を巻き戻しているわけではないように思えます。
時間は経過していますが、その中で「保存したものを保存した状態で復元できる」のではないでしょうか。
これは一見時間を戻しているようですが、決定的に異なります。
それはつまり然るべき時が来るまで「保存した状態」で待てるということ意味しているからです。

アナが死んだとハンスに告げられたとき、世界が止まったように見えるのは
「エルサがrecord(記録)するのを止めた」
からではないでしょうか。
アナがいなくなった世界、つまり、記録する意味が世界になくなってしまったために、保存が停止してしまったのだと思います。

エルサはおそらく自動的に世界のバックアップを取っているのではないでしょうか。
そしてそれらを元に戻したり、他の入れ物(例えばオラフ)に転送して再生したりできます。
これが「命」を生み出しているように見えるのではないでしょうか。

「コードを書き込んだから復元できる」というのは、シュガー・ラッシュ:オンラインでも示されていました。
パビーが言う「頭は簡単に書き換えられるが心は書き換えられない」というのも、保存された記憶(データ)の改ざんの話です。

エルサが世界の記録を取っているなら、全てのIDがエルサに包括されおり、全てのものはエルサに内包されているということになります。
エルサがこの自分の力の真相に気づき、その真実を受け入れるということが、NOKKが試す「神としての資質」なのではないでしょうか・・・
エルサはこの「力」を与えられたがゆえに「生けるものよりも偉大な存在」と表現されているのだと思います。