FROZEN考察ブログ

映画FROZEN(アナと雪の女王)の考察ブログ

マレフィセント2が紛うことなき戦争映画だった件

f:id:moonboat:20191104201546j:image
 
映画「マレフィセント2」を観てきました。
いやぁ、素晴らしかった。
今のところ今年観た中で(とはいっても月に1本くらいしか観ませんけれど)個人的に一番心に刺さった作品です。
痛烈な現代社会への批判、そして猛烈なディズニーの自己反省の映画でした。
まさに2019年に相応しい作品ではないかと思います。
 

マレフィセント2は「戦争映画」

話を盛っているというわけではなく、マレフィセント2は正真正銘の「戦争映画」でした。
ご覧になった方はお分かりだと思いますが、ほぼほぼ策略・虐殺・戦争のシーンです。
ディズニーがここまで描くのか!というくらい、容赦なく人も妖精も死にますし、「眠れる森の美女」というフェアリー・テイルをメタ的に批判する、とても攻めた内容でした。
 
そんなシリアスな内容の中でも、マレ様が最初から最後までとことん可愛い。
その可愛さが、寧ろダークな物語の中で胸を締め付けてきます。
 
マレ様、本当にいい妖精ですよね。
正直もうディズニーはマレフィセントを「ヴィラン」扱い全くしていません。
映画を観たら、きっとみなさんマレフィセントのことが大好きになるのではないでしょうか。
本当に怖いのは人間、そして人間の「政治」であると教えてくれる映画です。
 

萌えポイントいっぱいのマレ様

オーロラの婚約に際し、人間(フィリップ王子のファミリー)から食事に誘われ、戸惑いつつも思いがけず嬉しいマレ様。
アンジーの表情が見事です。
王子の母親であるイングリスが会いたがっていると聞いて、ちょっと、いや、かなり内心嬉しいマレ様は、オーロラの足を引っ張らないように一生懸命「ごあいさつ」の練習をしています。
それなのに、牙を見せてはいけないと言われたり、しまいには大好きなオーロラに角を隠すベールまで渡される始末。
オーロラ、なんてことするんだーーーーーーーー!!!!
と心の中で叫んだ人は大勢いるのではないでしょうか。
(私はもうマレ様が健気にあいさつの練習をしている時点で泣いてしまいました。笑)
 
しかしこれは今までの「フェアリー・テイル」のように甘くなく、またとてもフェアな描写です。
糸車の呪いがまだ残っていたのは、マレ様の人間への不信感が拭い切れていなかったということだと思いますが、同じく人間であるオーロラにも、マレ様の容姿が怖がられるのではないか、気に入らないことがあれば悪いことをするのではないか、という差別的な意識や不信感があるということが効果的に描かれています。
また作中悪事を働くのは人間(イングリス)ですが、イングリスに協力している者の中には妖精もおり、人間が人間を裏切ることもあれば、妖精が妖精を裏切ることもあるという、とことんリアリティを盛り込んだ作りになっています。
 
しかし、ヴェールを渡されて物凄く傷ついたはずなのに、グッと我慢するマレ様には胸が痛みます。
嫌われているはずの人間から食事誘われて戸惑ったり、オーロラの足を引っ張らないよう挨拶の練習をしたり、理不尽なのにヴェールで角を隠さなければならないと感じたり、マレ様が本当はとても自己肯定感が低いことがよく描かれています。
 
今回は「デマと政治」が主題のひとつでもありますが、ある意味フェアリー・テイルのヴィランズは、物語で伝えたいことを効果的に伝えるため、つまり民衆を心理的に操る「政治」のために「意図的に悪役にされている」ため『自分は悪いのだ』と思い込まされていて自己肯定感が低いのかもしれません。
このマレ様の「自己肯定感の低さを乗り越える」という姿は、最後の最後の方で回収されますので、「デマ」「政治」「差別」「戦争」に並んで、マレフィセント2での大事なポイントなのではないかと思っています。
正直私はこの「ヴィランの自己肯定」の部分に今回一番感動しました。
 
その他にも、初めて同種の仲間(ダーク・フェアリー)がいることを知ったマレ様が、ダーク・フェアリーの子供たちが空を飛ぶ練習をしている姿を見て思わず笑顔になったり、彼らが危機に瀕していることを知って「私が守る」と即答するなど、彼女がとても優しく愛に満ちていることがわかるシーンがたくさんあります。
キノコの妖精を襲われて怒るマレ様、妖精たちの墓地を荒らされて怒るマレ様・・・マレ様はツンツンキャラですが、行動するときはいつも自分のためでなく他者のためです。
 
その点を最もよく理解して利用しているのは、意外にもイングリスです。
イングリスは近年珍しいくらいに、単に「戦争が好き」「殺人が好き」というサイコパス気質なヴィランです。
サイコパスはよく「人の気持ちがわからない」と思われがちですが、寧ろその逆であり「人の心理がよくわかる」のでそれを利用するのに長けています。
ただそれに「共感」をしないだけです。
イングリスの陰謀を支えるパイプオルガンの虐殺少女、ゲルダさんもサイコパスですが、イングリスが勝負事(作戦や戦争)に勝つことに快楽を感じるタイプなのに対し、ゲルダさんは「殺人(殺妖精)」行為そのものに性的快感を覚えるタイプのようです。
どちらも間違いなくサディスティックですが、ちょっと趣向が違います。
この二人のエクスタシーはそれぞれ美的に描かれていて、視覚芸術的な効果がとても大きい本作の中でも、特に印象に残る場面です。
イングリスの方は、戦地と化した城の庭という「場」を支配する光景に浸かることのできる塔の上で、ゲルダさんの方は、虐殺現場となった聖堂の中で自ら荘厳な音色を奏でながら、それぞれ悦に浸っています。
各々の場面で兵器の赤い煙が花開く様がとてもエロティックです。
ゲルダさんは放っておいても(城仕えにならなくても)虐待や殺しをやっているタイプなので、やはりそれを見つけてくるイングリスの勘は流石だと思います。
ゲルダさんとしてもたくさん殺せる機会なので、作戦はイングリスに任せた方が互いに利があると思っているのでしょう。
なかなかディズニーにはいないタイプの悪役二人なので、とても魅力的でした。
 

王子がだいぶ良いことを言う

前作ではモブ状態だったフィリップ王子ですが、今回はとても大きな役割をします。
妖精たちを「民」と呼んで人格ある個として尊重し、イングリスの流したデマを信じ勝手な先入観にとらわれている自国の兵士に対して
 
「知りもしないで妖精たちの悪口を言うな」
 
とたしなめるその言葉は、フェイクニュースに踊らされ、正義を盾に攻撃の実行へのハードルを下げている現代の我々を強く叱っています。
また、イングリスに攻撃をやめさせようとした際
「これは戦争なの」と表現した母親に対し
 
「戦争ではなく虐殺だ」
 
と即座に言い返したのには唸りました。
この王子なら未来を託しても大丈夫そうです。
 
その他、気合いを入れてプロポーズにやって来ても、オーロラの女王としての仕事の都合を尊重したり、アルステッド国でのしきたりに息苦しさを感じるオーロラに対して「自分は森の中で出会った少女に恋をしたのだから変わらないでいほしい」と励ますなど、思いやりとモラルのある青年として、若干マンスプレイニング気味なジョン国王との差が付けられられて描かれています。(若干と言ったのは、ジョン国王のマンスプレイニング発言「王妃は私の後ろに」がとってつけた感が否めないという意味で、マンスプレイニングの程度の話ではありません)
 

決して「野蛮」ではない妖精たち

イングリスのデマ、つまり吹聴された「フェアリー・テイル」 により、尾ひれはひれついて凶暴で野蛮なイメージを持たれている妖精たちですが、プロポーズ作戦に協力するなどフィリップ王子を好いているようですし、人間の国からの結婚式の招待にも、疑うことなく純粋に喜んでいます。
招かれた聖堂できちんと新婦側の席に座って待っている様子は、新郎側の空席と対比されてとても悲しいシーンです。
食事の席でマレ様が鉄のカトラリーを下げられた時も「遠慮なさらず手で召し上がって」というイングリスの言葉に、ジョン国王もフィリップ王子も何も言いませんでした。
鉄ではないカトラリーを用意するだとか、自分たちも手で食べるだとか、そういう配慮はないのです。
むしろ「彼女にはそうしてあげた方がいいのだろう」くらいに思っていて、無意識に卑下しています。
しかし、妖精たちは決してそのように粗暴な生き物ではありません。
実際には秩序的で文化的な暮らしをしているにも関わらず「イメージ」で悪く思われているのです。
 

アレルギーとして描かれる「毛嫌い」

イングリスは妖精の「におい」でくしゃみをします。
妖精たちを捕らえて監禁している地下室や妖精の花、オーロラが髪に飾っている妖精の国の花の「におい」に過敏です。
もう一人「におい」に反応するキャラクターが、ダーク・フェアリーのボーラです。
自分たちダーク・フェアリーが生き残るには人間と戦うしかないと主張する彼は、マレ様に顔を近づけて「人間くさい」と漏らします。
 この場合の「におい」とは、実際のそれとは違うものでしょう。
「妖精だ」「人間だ」というだけで拒絶反応を起こしているという「毛嫌い」の描写です。
 
この「相手のにおいが気に入らない」二人は、好戦的なキャラクターです。
ボーラは平和を訴えるコナルの意見を聞いていましたが、彼が人間の攻撃に倒れてからは 「平和を求めたコナルが殺されたのだから、もはや戦うしかない」として、ダーク・フェアリーたちを戦争に駆り立てます。
ボーラのこの演説は説得力がありますが、「国を守るには弱腰ではいけない」「政治のコツは民衆の不安を煽ることである」というイングリスの主張に通じるものがあります。
彼にとってコナルの訴える「平和」とは、ちょうどイングリスが言うところの、オーロラの抱いている理想のように「頭に花を飾って森を駆け回るような甘い考え」であるように見えているのです。
 

「教える」ことの大切さ

イングリスの失敗は、ジョン国王の教育を見くびっていたことでしょう。
彼女はジョン国王の平和を重んじる理念を「おとぎばなしのようなもの」として甘く見ていました。
しかし結果的に、ジョン国王の教えにより武力行使をしない「強さ」と「正しさ」について考え、信念を持って育ったフィリップ王子の活躍もあって、彼女の策略は失敗に終わります。
 一方マレ様は、オーロラ、ディアヴァル、コナルなど、大切なことを教えてくれる人たちに恵まれました。
彼らがいたことで、マレ様はいろいろな視点に触れ、気づき、考える人生を送ってきたのです。
 
「フェアリー・テイル」を信じていなかったのは、イングリスもマレ様も同じです。
しかしマレ様は、周囲の信頼する人たちが繰り返し説く「おとぎのような愛」について、考え続ける環境で生きることができました。
 「フェアリー・テイル」に絶望し、それを信じる危険を実体験として持っているマレ様が「それでもなお、おとぎ話のような愛と正義の力を信じる」と、覚悟を持って決断するまでの物語が「マレフィセント」なのだと私は思っています。
 

「愛」とはなにか

全ての終わりに、マレ様はオーロラのことを、今までの「醜い子」ではなく「愛しい子」「私の娘」と呼びます。
マレ様は、今までも決して愛を知らなかったのではありません。
またオーロラに「母」と認められたので「娘」と呼ぶことができたのでもありません。
そのような「許し」がなくても、オーロラを「愛している」こと、自分が「母」であり、彼女が自分の「娘」であると、強く理解したからこそ、そう言ったのです。
 
マレ様は、ずっと愛を知っていました。
妖精の森に育まれ大空を飛び回っていたときも、若き日にステファンと恋をしたときも、オーロラを育て成長を見守り続けたときも、彼女の中には「愛」があって、彼女もそれを理解していたはずです。
しかし「ヴィラン」の自分には、「愛」は「あってはならいもの」だと思い込んできました。
それは「フェアリー・テイル」には都合が悪く、求められている「自分の役割」に反しているからです。
しかしそれでもなお「愛」はマレ様の中にあり続けました。
オーロラや妖精たちに対する「愛」が、疑いようがないくらいにはっきりと存在しいるのに、自分はそれに相応しくないと思っていたのです。
そしてその「許し」を請うこともまた「許されない」と思っていたからこそ、マレ様は葛藤し、苦しんだに違いありません。
しかしついに「私は愛をもっている」という「存在や事実」には、「許可」など必要ないのだと、マレ様は気づきました。
フェアリー・テイル(思い込まされた価値観)を、マレ様が乗り越えた瞬間です。
 

イングリスもまたスケープ・ゴート(贖罪の山羊)である

物語の終わりに、イングリスはマレ様の手によって「山羊」にされます。
山羊は悪魔の象徴であると同時に、生け贄の象徴でもありますが、私はこれを見て、イングリスもまた「マレフィセント」という創作物においてのスケープ・ゴートであるという意味が込められているのではないかと思いました。
この描写はもしかすると、ディズニーから全てのヴィランズに捧げる贖罪なのかもしれません。
 
そして物語は、オーロラ姫とフィリップ王子に対し「洗礼式にはまた来るから」と、マレフィセントがウィンクをして、子供のダーク・フェアリーたちと自由に大空を羽ばたいていくシーンで終わります。
映画の冒頭で三妖精が「オーロラはもう『眠れる森の美女』なんかじゃないもの」と、フェアリー・テイルとしての、もっと言えばディズニーの「眠れる森の美女」という創作物に対しての言及をし、この映画が「物語を描く物語」であるとう立場を明確にしてから始まり、「マレフィセントという悪い妖精が洗礼式にやって来て人間に呪いをかける」シーンから始まる物語を、見事に回収しました。
 
次にマレフィセントが洗礼式に現れるときは、人々は彼女を歓迎し、彼女は呪いでなく祝福を贈るでしょう。
吹き込まれた「眠れる森の美女」のフェアリー・テイルは、共に紡いでいくこれからのおとぎばなしとして書き替えられたのです。
 

それでも「フェアリー・テイル」を描くということ

マレフィセント2」の終わり方に、もしかすると物足りなさを感じた方もいらっしゃるかもしれません。

つい先程までいがみ合い、争っていた人間と妖精が和解し、オーロラとフィリップの結婚式に参列するのですから、急に「おとぎばなし」に戻ってしまったと感じるのは当然といえば当然です。

しかし私は、この終わり方が最も巧みで、好ましかったのではないかと感じています。

 

マレフィセント」に限らず、近年のディズニー映画は、自らが世界に浸透させた「フェアリー・テイル」の功罪について自覚的な作品作りをし、アップデートを図り続けてきました。

その姿勢を支持してきた人たちの中には、マレフィセント2の終わり方を見て「ディズニーはおとぎばなしの域を出ないのだ」と残念に感じた方もいらっしゃるかもしれません。

しかし私は、安全策として「結局、おとぎばなし」にしたのではなく、彼らがその必要性を信じて「敢えて、おとぎばなし」にしたのではないかと感じています。

後半までずっとリアリティをもって描けていたのですから、ラストもリアルに、シビアに終わらせることはいくらでもできたはずです。

そしておそらく、私たち観客もまた、近年のディズニー映画にそれを望んでいます。

もちろんオールド・ディズニー的な「勧善懲悪」の物語を望んでいる方もいらっしゃると思いますが、ディズニーにその気がないのは明らかですので、当然今回もアップデートをしてくるだろうと多くの方が予想したはずです。

 

ではなぜ、マレフィセント2は『絵に描いたような平和なハッピーエンド』を敢えて持ってきたのでしょうか。

それは、ディズニーの否定したいのものが、フェアリー・テイルが人々に信じ込ませる「絶対的な善と悪が存在するという物事の単純化」の部分であって、「愛と平和の明確さ」ではないからだと、私は考えています。

 

おそらくディズニーがやりたいのは、単なる「おとぎばなしの否定」ではありません。

彼らは「まるでおとぎばなしのような、明確な愛と平和」を捨てるわけにはいかないのです。

これは、彼らの信念であると私は感じますし、我々人類が覚悟を持って信じ続けなければならないことだと思います。

現代の我々は、きっとイングリスのようになっているのかもしれません。

「人間の政治は複雑」であるから、現実世界は「頭に花を飾り森を駆け回るおとぎばなしのように簡単にはいかない」のだと、そしてそのリアルさや困難さ、複雑さを描くことが時代的に好ましいのだと、そういう流れがあります。
今日の我々はイングリスや過去のマレ様のように「フェアリー・テイルは現実を救ってくれない」と感じているのです。
 
たしかにフェアリー・テイルの勧善懲悪の部分は現実社会とは乖離していますし、この世界は複雑であり、課題に満ちています。
この荒んだ世界の中で、愛と正義を信じ続けることが、いかに「簡単」ではないか、我々は知っています。
しかしそれは、世の中の「複雑さ」を唱えるだけでは、決して解決へは向かわないのです。
 
私は「マレフィセント2」という作品で、オーロラは「新しい政治」を私たちに示したのではないかと感じました。
今までのフェアリー・テイルと違い、マレフィセント2には憎しみや愚かさ、暴力や理不尽な死が描かれています。
戦場と化した城の庭には、人間の屍も、妖精の屍もあるでしょう。
血が流れ、憎しみが漂い、簡単には乗り越えられない不条理が、そこには満ちています。
冷静に考えたら、なにも戦いのあったその場所で、しかもその日の内に、婚礼の儀など挙げなくていいのでは、と思うでしょう。
しかしオーロラは、争い合い、血の流れている「いま、ここで」両国の友好を宣言する必要性において、式を強行しました。
もしもみんなが「冷静」になれば、また「複雑さ」を理由に「平和」へ踏み切る機会を永遠に失うと、オーロラは感じたのだと思います。
 
このシーンに、私はオーロラの「政治手腕」を強く感じました。
イングリスに、若さと治世の短さを理由に政治は不可能だと非難されたオーロラですが、私はとんでもなく政治力があると思っています。
正直に言って、人々の「冷静さ」の危険をかいくぐるこのやり方において、イングリスとオーロラは紙一重です。
イングリスとオーロラはただ一点「フェアリー・テイル」の「勧善懲悪」か「愛と平和」の、どちらを利用するかにおいてのみ違うのです。
 
ディズニーの描く愛と平和が「願えば叶う、夢のような愛と平和」から「実行が最も困難な、しかし、明確な愛と平和」へと次元が変わったのだと、私は思います。
 
その描写として、山羊の姿のイングリスが、結婚式の輪に入っています。
今までのように「退治」されたヴィランは物語の外へ出されることはありません。
悪を排除し、善だけを集めた世界が、現実の平和ではないのです。
 
人間がいて、妖精がいて、困難があり、愛がある。
オーロラとフィリップの結婚式に参加した全ての者が存在しているのが、私たちの世界であり、目指すべき平和の姿なのだと、「マレフィセント2」は示してくれたのだと思います。
 
マレフィセント2」は、「おとぎばなし」の語り出しへフェニックスのように繰り返し循環する構成と、そこに至るまでに描かれた沢山の「山羊」たちに敬意を添えた、美しい作品だと、私は思いました。
 
 
 
 
余談。
結婚式で「私を引き渡して」と言われ「え、嫌よ」と勘違いして即答するマレ様と、ディアヴァルに「メソメソしないの」と言いながら、自分も素直に泣いてしまうマレ様は本当に良い妖精で、可愛いです。
みなさんも是非「マレフィセント」「マレフィセント2」、観てみてくださいね。