すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ【感想】
映画「すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」を観てきました。
号泣者続出、予想以上ではなく予想外の展開で大人がざわつく映画だと公開以来話題ですね。
一部には2019年で一番面白いとか、ジョーカーを超えるとかの声があり、気になったので行ってきたのですが・・・うん、流石にそれは言い過ぎかなとは思いました。笑
おそらく普段映画を頻繁には観られない方が、お子さんを連れて行って思わず自分がハマってしまった、話題になっているので久しぶりに映画を観たら泣いてしまった、という感じなのかなと思います。
だからといってつまらなかったわけではありませんし、キャラクターたちも可愛くて癒やされました。
そしてなにより、可愛い絵柄からは想像できない物語のシビアな設定が大人たちにウケているのだと思います。
それ故に一体どの客層に向けての脚本なのかわかりにくく、映画が伝えたいメッセージも汲み取りにくいものだったため、ちょっともやもやしています。
しかしきっとこのもやもやした感じが、単なる「おとぎばなし」ではないというのが、ヒットの要因なのかもしれません。
折角ですので、ちょっとここのブログらしい切り口で感想を書いてみようと思います。笑
映画「すみっコぐらし」は、徹底した「反セカイ系」映画でありながら、小さな「セカイ系」要素を内包している不安定さが魅力の作品
セカイ系の定義は曖昧ですが、ここではざっくり「主人公の意思が世界の在り方に反映してしまう作品」をセカイ系として書いてみます。
この点において、映画すみっコぐらしは、徹底した「反セカイ系」の設定です。
私がここで「セカイ」を出すのは、この映画が様々な「世界」を扱った作品だからです。
私がこの映画で面白いと思ったのは、物語に登場する各「セカイ」に設けられているルールが異なるところです。
「セカイ」に着目して観た場合、以下のようになると私は思っています。
映画「すみっコぐらし」では・・・
おとぎばなしの流れは基本的に書き換えられないが
↓
絵本という物理的構造を利用して各おとぎばなしの「世界」同士を繋いだり、融合させることは可能
↓
しかし「所属」という世界(現実世界/絵本の世界)の隔離は徹底されている(=反セカイ系)
↓
しかし絵本の「世界」を書き換えるという「セカイ系的な行為」により、現実とフィクションの両世界に影響を与える
というものです。笑
これ、実際に映画をご覧になっていない方にはわかりにくいと思うのですが、ご覧になったはお分かりいただけるかと思います。
例えば「桃太郎」なら、おじいさんは山へ行かなくてはならないし、おばあさんは川で桃を拾わなくてはなりません。
この「おとぎばなしの基本的な流れ」は、どうやら変えられないようです。
しかし「絵本という物理的構造」を利用して、各おとぎばなしを繋いだり融合することは可能です。
例えば裏のページに書かれている別のおとぎばなしの中に、飛び出す絵本のギミックを利用したり、物理的に紙のページに穴を開けることで移動することは可能なわけです。
しかし、物語の設定として、キャラクターたちにはそれぞれ「所属」してる世界があり、「所属」していない世界には「存在」できない、というシビアなルールがあります。
ここがこの物語の一番「残酷」な部分です。
つまり、主人公たちの意思は決して「セカイの在り方」を変えることはなく、彼らは自らのセカイに関与できないのです。
この映画の最も評価できる点は、ヴィランが存在せず登場キャラクターの全てが優しい創作物であっても、設定によって「残酷」を生み出すことができる、という点と、「現実的解決方法」が結果として「セカイを書き換える」とういう「非現実的行為」であるが、矛盾せず存在しているという点です。笑
しかし、この映画が観客に伝えたかったメッセージが、私にはとても汲み取りにくく感じました。
一番わかりやすいハッピーエンドは、ひよこがすみっコたちの世界にやってきて、共に仲良く暮らすことでしょう。
しかしそれが叶わない。そうなったとき、すみっコたちは実際にできる努力として「絵本を書き足す」というセカイ創造を行います。
この終わり方は「力が及ばないルールはあるが、現実的に考え得る方法で、可能範囲で補おう」と取れなくはありませんが、それが子供たちや観客に伝えたかったメッセージなのでしょうか。
もちろんそれに意味がないとはいいませんし、たしかにだいぶ現実的で実践的なメッセージです。笑
しかし、視点を変えてみると、フィクションに影響された現実世界が、フィクションを更新することでフィクション自体を救い、またその救われたフィクションが現実を慰める、という風にも取れます。
ただもしこれを主なメッセージとしているならば、本当にどの層向けの映画なのかわかりません。笑
どちらのメッセージも意義がないことはないですが、伝わる層、あるいは伝えるべき層のいる方角に向かって効果的に公開されているのか謎ではあります。
オチに入る前に「みにくいアヒルの子」的展開をメタに批判しているのも攻めていますが、そこで終わらず更に追い打ちがかかるあたり、大人向けなのでしょうか・・・
子供たちがどのように受け止めているのかが大変気になる作品でした。
作品からイデオロギーを感じないので、おそらく子供向けの映画でシナリオの巧みさを見せたかっただけだとは思いますが、だとするとかなり即出のものなので(そのため「実質○○」と例えられる)「オタクに好まれるシナリオをゆるキャラでやった」という、オタクが作ったオタク向けの映画なのだと感じました。
子供たちも多く観るであろう作品で、子供たちのためというよりはオタクの内輪ノリに走ってしまった感が否めないので、そのあたりの無意識さ、無責任さは若干感じます。
近年はこの「オタク文化に親和性が高い作品」が、サブカルではなく一般(というか非オタ)ウケするようになってきたように感じますが、それは一般(非オタ)の人がオタク化した、オタクの感性を持つようになった、というわけではなく、ただどちらも「自分たちが何を見ているのか」が意識されていないのだと思います。
最後に辛辣になりましたが、キャラクターたちはとても可愛く、個性的で、癒やされますので、別にがっかりするような映画ではありませんでした。笑
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