FROZEN考察ブログ

映画FROZEN(アナと雪の女王)の考察ブログ

映画「TAR/ター」を観ました

 

えーと、まず私がちゃんと理解出来てないんだと思うので「そりゃミスリーディングだぜ!」というところがいっぱいあると思うし、なんか観た人の感想を読む限り「私が観たのTARだったのか・・・?」と思うくらい印象というかストーリーそのものが違う気がするので自信ないんですけど・・・一応リクエストいただいているので感想というか「こんなふうに思って観てたんですけどもしかして全然違いますか・・・?(震)」っていう、映画にもクラシック音楽にも馴染みも知識もない変な一般人(?)の初見解釈です。トンチンカンだったらすみません。先に謝っておきます。


【以下ネタバレ含む】


えーと、まず大前提として、これは大衆がぼやっと「こうだったら(自分がっていうより)今の時代っていうか社会的にいいんですよね?」とか「Z世代ってこういう感じだと叩くのに都合いいんですよね?」って思ってる「詰めの甘い仮想現実」が「現実設定」で舞台になっている作品ってことでいいんですよね・・・?

コロナ発言とかあるし「現代」の設定だと思うけど、私たちの世界線で女性指揮者が賞を総なめにして頂点君臨してるなんてないし、レズビアンで妻娘ありのところを業界権力おじさんたちにネチネチ言われてないとか、コテコテ今っぽ学生(貧乏ゆすりーとチェロっ子。名前がター以外覚えられなかったのであだ名ですみません)とか、あとこれは私が詳しくないのでわからないのですが、実力主義のため男女や人種が満遍なくいる感じのオケとかクラスとか、なんかで見たことあるアジアもしかしたら南米とかかもだけどなんかそういう神秘の異国、とか。

そういう「そうであるべきだよねと言っておいた方が善い(人になった気がするし、実際自分も思ってます)」や「彼らが持っているリスクや可能性も、彼らへの理解もありますよ(知らんけど大体知ってます)」で私たちの頭の中に描かれている「現実(リアル)」を覗いている=今私たちが現実に「見ている」世界って設定ですよね・・・?

なんか、ターが政治できないとか、学生が典型的とか、そういうのを「『作品』としての解像度の甘さ、詰めの甘さ」みたいに言われてるのを見たのですが、私はそういう「『私たちの』解像度の甘さ、詰めの甘さの『現実』で起きること」を描いているものだとばかり思っていたので、あれ、これもしかしてリアルガチ設定として評価するものなのか・・・?と、まずなんかその時点で冒頭からズレて観ていたかもしれません。

なのでそのつもりでお読みください。

 


まず冒頭のシーン、民族の歌みたいなのをキャッキャする子供の声と録音してるあれは、ラストのモンハン下積み時代みたいなのと、違うけど同じものだと思いました。

がっつり合致ループじゃないにせよ、ループものとして観れるようになってると思います。

そう思った理由は、次に来るインタビューのシーンで「指揮者はメトロノーム説」発言に「そういう面もあるが、指揮者こそ時間」とターが前のめりになるからです。

4年だか南米だかの民族と暮らしたことになっているターの紹介。

この「だか」で保留したまま進めちゃう私(映画を観ている多くの人)の解像度のガバさで観てくださいなってことなんだなと理解しました。私が。

紹介される経歴だとクラシックのみならず超多ジャンルで賞をもらってる超人ター。

映画音楽も〜とか言ってたので、私は単純にじゃあゲーム音楽とかもやってそうだなと思って観ていて(ドラクエオーケストラを思い出したので)あのラストは、ああ、あのファジーなアジアのミステリアス人物たちとモンスター狩ってそうなハンター民族っぽ観客たち相手にしてたのが4年の民族音楽研究経歴ってことで語られてるんだな、と思いました。

あの「冒頭のエンドロール」裏で流れている音源。

私は最初、聞きなれない民族の歌に聞き耳を立てていたので、子供の声が気になりました。となるとその「雑音」を排除できないチープな録音環境を想像してしまいます。

それにぶっちゃけ初めて聞くもんだからこの歌が上手いのか下手なのか、テンポや音程が合ってるのか合ってないのかわからない。

てかそもそもそういうの自体がない自由なものなのかも?たぶん民族の歌ってそういうものでなんでしょう、そう考えると子供の無邪気な声が入ってるのも音楽と自然と人々の営みの融合で崇高なんじゃない?そんな彼らの文化や価値観(ということにしておく知らんけど)をリスペクトするしリスペクトするのが現代人よね?でわかった感で聞いている(のだと思われる)聴衆(=私たち映画鑑賞中の人)。

このインタビューでメトロノームだと言われると「指揮者は不要。時間の被支配者では?」ってことだから、ターは気に食わなくて、指揮者(時間)を超越した(不要とする)音楽は精霊信仰で過去と現在の融合だから「例外」みたいに言って、自分は時間の支配者で時間そのものだと熱弁します。

これを過去の女性指揮者たちを立ててる風で自分を「例外」にしてる流れで入れてくるあたり面白いですよね。

他にも同じ「間」を切り取るだけのメトロノーム(ロボットたち)が後にターの時間の支配者(切り抜き悪意動画拡散マン)になるのも、「神と観客の前で指揮者は己を消す」的な(うろ覚え)信条で「YouTubeで観て感動したけど指揮者は知らない」って言うチェロっ子受け入れるのも、「違っていても矛盾しない(成立する)」のをやたら入れてくるのは冒頭のループ匂わせ強化の効果があるんだろうなぁと感じました。

正直、この時ターが本当に先人の女性指揮者たちを貶めていたのかはわかりません。

そう受け取れるように意図して作られてはいるけれど、ターが言うように女性先駆者たちも正当に評価されれば第一指揮者(というのか?)になれたはずなのに結局自分の時代までそれはなかったのは、それまでは「見せもの」にされたということだという業界の歴史への苦言ともとれます。というかそういう「てい」が成立するような話し方しかその後のストーリーの中でもターはしません。

私は映画館に行くまで「ケイト様(ター)のパワハラ映画」と聞いていたので、そういう「てい」も必要としないような「お前なんかムカつくからクビな!今気分悪いからお前サンドバッグになれ!私が誰だかわかってんのか?私の一言でどうなるかわかってるよな?天下のター様だぜ!ガハハハ!」的な権力振り回し系の人物なのかと思ったのですが、副指揮者交代の時も、ソロチェリスト選抜の時も、一応「てい」かもしれないけど「私の解釈は間違ってた?」とか「オーディションにしたいんだけどいいかな?」とか「自分の楽団を指揮してみては?」みたいな発言はする。

もちろん周りは「上の存在」のターにノーと言えないし、勝手に「忖度」するわけで、ぶっちゃけこうなると登りつめちゃった人は何を言っても立場的に権力があるからパワハラだと言われる可能性があるなぁと。

ただまあ、ターが尊大な人物であることは明白で、自分の音楽が隣人の部屋が売れなくなるような「雑音」になるなんて思いもしなかったし、むしろサービスで聴かせてあげていると思い込んでいるような、パワハラあるある「喜んでいると思った」な残念な人描写があるわけですが。

私あのシーン好きです。自分が「雑音」だと思っていた隣人の生活音ですが、同じように自分の「崇高な音楽」もまたある人には「雑音」だった。でもその雑音ピーンポーンやなんちゃってアジアの雑踏やゲームのテーマ曲からだって、また冒頭でインタビューを受けるあのターの「崇高な音楽」は生まれるし、またその「崇高な音楽」は誰かの「迷惑な生活音」になる。

結局、低俗とか崇高だとかそんなものはなく「冷蔵庫の立てる音は音楽であり雑音である。それは違うけれど矛盾しない」んですよね。


インタビュー後の展開について。

告発の真相は特定できない作りになっていて正解がないので、ただ私は初めて観た時(というか今後も2回目観る予定はないのでこの感想は全部ファーストインプレッションですが)こんな風に思って見てたってだけの話になります。

あのバックレ助手がインタビュアーのセリフを覚えているところは単にループ匂わせでもあるんだろうけど、ターは質問内容知らなかったっぽい(車での会話)のでバックレ助手の仕込みなわけで、「めっちゃターのこと嫌いじゃんw」ってのが早々にバラされちゃうのが、個人的にはもちょっと引っ張ってもよかったのかなぁとも思いつつ、ゆったりした前半の中に変なテンポで彼女だけ入ってくるのは意図的なんだろうなと思いました。

なんというか、そういう点で割と親切設計?の映画なのかなぁと。アナ雪みたいに。

例えば、ターのスコア知りたいマンのあの厄介オタ男氏との食事の席で「サクラを用意して」みたいな話があるので、貧乏ゆすりーの授業のシーンでああこのクラスにサクラ(仕込み)がいるんだなってわかるようになってるし、ターの怪我も、序盤順調っぽい時はタクト(時間)を掌握する指先にほんの少しでその後を仄めかす程度、後半は偉大な指揮者としての文字通り「面子」が傷ついたり。隣人の「崩壊」と「死」に触れた後に「別人としての再生」が訪れることとか。今後こうなりますんでここ見といてくださいねーみたいなのが多い印象でした。

(追記。ここでいうサクラ(仕込み)は生徒じゃなくて、授業を録画してる人物のことです)


「時間」については多分色々な方が書かれてるだろから私が書くことはないと思いますが、カチカチペンおじさん(ターにとってのメトロノーム/ロボット)を辞めさせる時にカチカチペンを奪うのも、個人的には冒頭で副指揮者?第二指揮者?は「自分の楽団を持ててない人」になるので(カチおじ的には持ててる認識だったけど)おじさんからカチカチ(=メトロノーム)を奪うのは「支配」でもあるけど「解放」でもあるんだなと。むしろ私は後者の方を比重的には感じたタイプです。

個人的には、ターは尊大でもピュアなところはあると思っていて、自分の権力に自覚的なところと全く無自覚というか自信がない部分もあるのかなと感じています。

例えばチェロっ子をアパートに呼んだ時に、もし権力に自惚れてたらすぐ手を出してもよさそうなのに、甲斐甲斐しく世話してるし、車で送って手にキスされただけでもあの喜びよう、めちゃかわじゃないですか?健気〜。

ターの妻は自分含めターは利害で肉体関係を結ぶ的なこと言ってましたが、そもそも深い話をベッドでするのは割と多くの人がそうでは?と思うし、ターが今までいろんな人に手を出してきたとしても、恋心や愛はそれぞれに対してあったんじゃないかなぁ。10の人に10の愛を持てるタイプなんじゃないかなという印象があります。

そうそう、チェロっ子といえば、あの落書きだらけの謎廃墟にターを誘うためだけにいるような子だなと思いました。

いわゆるテンプレ今っ子でファムファタールになるにしてはだいぶ魅力に欠けるので、本当のファムファタールは亡助手なんだろうなと。でも魅了されたのはターじゃなくてバックレ助手で、ターは巻き込み事故みたいな。

「子供がいる(自分は大人である)」と言うターに対して「子供はいらない(子供のままでいたい)」と答え、幼児性のメタファーであるくまのぬいぐるみを置いていくチェロっ子。

ターはその「幼児性」を持って謎の廃墟(自分の幼少期)に迷い込み、影犬に追われ(「見せもの」は英語でdog actというそうですが、私はそれを知らなかったので、貧乏ゆすりーに反差別主義なわりにビ⚫︎チ呼ばわりされてたしチェロっ子追っかけて来ちゃったし、犬が「シャドー」な上に子供から大人への混迷の廃墟だから単に向き合えてない過去の自分像だと思ってました)、そんで明るい方へもう直ぐ抜け出せるって時に「階段」をのぼり損ねて大怪我するわけですよね。で、それを「男に襲われた」ことにする。

ターが男性に足を引っ張られてきた描写って具体的にはないですけど、明るい成功への場所、成長の階段をのぼり損ねちゃったのを男性のせいにするのや、体を鍛えてるのや、色々あったんだろうなって感じさせます。

そんでその「嘘」をついた晩に娘ちゃんに「誰よりも綺麗な人なのに」的なこと言われるの、そりゃターも色々胸に刺さっちゃいますよ。

娘ちゃんの時だけ明確にというか意図的に「男性」について描かれるター。

私は、この映画ではター自身の男性性は描かれていなくて、ターにとっての男性像があるだけかなと思っています。

足を持ってもらわないと寝られない娘ちゃん。

潔癖なのにお隣さんを助けた(いい人だと思うよター)ターは、「汚い」がマックスになると足を洗う。

生家は決して清潔とは言えなそうなター。

いじめっ子(娘ちゃん申告)に「パパ」と「大人」で威圧するター。

動物オーケストラ全員に鉛筆(タクト/作曲)を持たせたい娘ちゃんに、民主主義じゃないから全員にはできないと言うター(なおターの棚には配れる鉛筆がいっぱいストックされている)

娘ちゃんはターの心理形成を描くには欠かせないキャラですね。

余談ですが、おそらく娘ちゃんの申告のみで「いじめ」があったとされ、よく知らない人に脅されることになった赤い服の子。

私あれが唯一明確に描写されたターのパワハラだと思っていて、その構造がそっくりそのまま炎上と告発という形でターに返ってきます。

他のパワハラの真偽をはっきりさせない意味が二重にあっていいですよね。

ちなみに雑音ピーンポーンのインスピレーション曲に娘ちゃんへってタイトルをつけるのは、雑音が音楽で音楽が雑音として扱われていただろうターの幼少期に、自らの原点であり未だ迷子の「ター」自身のための曲だからだと思います。


事件の真相はわかりませんが、私は事前にパワハラ映画だと聞いていたので、最初バックレ助手が号泣しながら「三人で旅した時は楽しかった」って言った時、ああ、旅行先でこの二人が亡助手に性的な乱暴したか三人で儀式的な快楽行為でもしたのかなと思って、温度差からターにとってはその人は多くのうちの一人でどうってことないけどバックレ助手にとってはお気に入りだったんだなと感じました。

儀式的なっていうのは、亡助手のシンボルがトライバルでそれにやたらターが怯えているし、ランニング途中の悲鳴を聞くのも森、悪夢も森のベッドなので、旅先の小屋とかでなにか「神秘的な」(という観客の雑で勝手な解像度で想像される)きっかけになる出来事があったのかな、と。

ただターは旅行のことを言われても動揺してないし、悲鳴を聞いて探しにいったり、その後のターという人物像の描かれ方から、ターはあんま関係なさそうだなと思いました。

バックレ助手は亡助手に執着してて、でも亡秘書はターに心酔していたかもしれない。ターはそんなでもない。

あの悲鳴はターとバックレ助手が亡秘書をいろんな意味で手にかけた暗示かと思いきや、ター自身にも文字通り真相は藪の中っぽいので、バックレ助手が愛憎渦巻いて殺してしまったのか、あるいは「無理やり」愛を向けたから情緒不安定になって別のオケへ異動したがり、事情を知らないターは様子がおかしいから推薦できないということで板挟みになり自殺してしまったのか。

なんにせよバックレ助手は亡助手のことでターが憎くて、指揮者になりたいとかではなくターを陥れたかったのかな、と。

最後のぶん殴りコンサートで、トライバルを彷彿とさせる観客席に、同時に観客が入ってくるの良かったですよね。

トライバルは亡助手のシンボルからバックレ助手の復讐のシンボルになり、それがじわじわ侵食してきて観客として「最終公演」を見届けてやろうっていう執念。


私、ターは人気の指揮者だったかもだど、あんまり愛されてはいなかったんじゃないかなと思っていて。

その中でめっちゃ好きじゃんなお前っていうのが、最後にぶん殴られたパクリ厄介オタクなんですよね。

ちなみにあのぶん殴りはパワハラじゃなく単なる暴力ですね。

彼がターのスコアを知りたがるのは自分がそれを体得して名声を手に入れたいとも取れるけど、いやこいつ単純にガチ恋オタクじゃね?と思っていてます。だからぶん殴られたのは暴力なんですけど「おーおーお前よかったな〜」って思ってしまって。

だってリアルタイムに生み出されたターのスコアを手に入れちゃったわけですから。

私は楽譜が読めないので彼が書き込んだ記号が音楽的になんなのかわからないですが、多分ターがぶん殴って止まったところに書き込んでいると思うので、あの「十字架」は「最高指揮者ターの死の瞬間」に当てつけに立てたというより、ターのスコアガチ恋オタクの最高のコレクションなんじゃないかなと思いました。作中彼は究極の「ロボット」ですよね。いいキャラです。(追記。あの十字を書いたのはオーボエ奏者だと教えてもらいました。となると純粋に墓標を立てた描写ですね)

 

 

あとは、ターはイケイケの時期も、その後のボロボロの時期も、一貫して「白人の振る舞いとして模範的」なのがいいと思います。

ファンの女の子や新聞隣人にも、生家に帰る時のタクシードライバーやごった煮アジアの人たちにもずっと「丁寧」に接している。

このいかにも「白人として正しく振る舞っている」優位性感が、ターという人の枯れないプライドを感じてすごく好きです。

そしてじゃあ口にはしないけどそういう「下の」人たちに横柄な態度をとっていいの?と言われたらもちろんダメで、「丁寧」に接するしかない。

それが「丁寧」に見える歪さが、唯一この作品の中で私たちの「現実(リアル)」と繋がっているようで私は終盤の謎アジアの雑さ嫌いじゃないです。

 

あとめちゃくちゃ余談ですが、売春宿のシーンについて。私は最初ホテルかスパに来たのにいつの間にか売春宿になってる解像度バグ亜細亜奇伝描写だと思ってたんですけど、「水槽」って受付の人が言ったので「あードクターフィッシュね。角質ついばまれてるター面白すぎじゃん」と思ってしまいました。違ったわ。

オーケストラ風に並んでる女性たち、「5番」の子が顔を上げるのもその位置がチェロっ子なのも、もちろん「5のトラウマ」で吐いたのだと思いますが、あの女性の顔が亡助手なのかな、とも思いました。

自由に泳いでいるようで実のところ「水槽」という狭い箱の中で、指名されることを、あるいは指名されないことを祈りながら首を垂れている彼女たちは、ターが今までに関わった閉ざされた世界の人々であり、ターはあの時初めてそれを外から眺めたのだと思います。

 

おしまい