新海誠作品「天気の子」の考察
最新作「天気の子」を観てまいりました。
このブログに書くのはFROZEN(アナと雪の女王)についてだけにしようと思っていましたが、他作品の感想・考察も書いてほしい、というお声をいただくようになりましたので、気まぐれに書くことにしました。よろしければお付き合いください。
さて。みんさんは新海誠作品をどうやって知られたでしょうか?
「君の名は。」で初めて知って好きになったという方は、過去の新海作品、または今回の「天気の子」に違和感を持たれるかもしれません。
個人的には「君の名は。」が例外的であり、こう言ってしまうと失礼かもしれませんが、受け手の好き嫌いが分かれる新海作品の「クセ」の部分が、大衆向けにチューニング(これは宇多丸さんがそう表現されていたのですが、とてもわかりやすかったのでここでも使わせていただきます。宇多丸さんはこのクセがチューニングされたことを「消臭」とも表現されていました。参照:宇多丸、『天気の子』を語る!【映画評書き起こし2019.7.26放送】https://www.tbsradio.jp/394270 )されたためヒットしたのだと考えています。
そのため「天気の子」で通常運転に戻った「無修正の新海ワールド」に触れたとき「君の名は。」のイメージしか持たれていない方の中には、戸惑いや違和感を覚えた方もいると思います。
新海誠さんの作品には一貫したテーマがあり、それが独自の世界観で繰り返し描かれています。
基本的にはどの作品も「同じテーマ」と「同じ登場人物」で作られています。
テーマは「個人の願いと救済」もっと言うと、新海誠さん自身の願いと救済という、新海誠さんによる新海誠さんのための、極めて個人的な目的の作品群です。
このような自己救済・自己免罪のために毎度用いられるのが「世界の危機」と、主人公(新海誠さん自身)を徹底的に肯定する役割を担った「記号としての女の子」です。
基本的に、新海作品には悩める少年とそれをひたむきに支える少女が登場します。
しかし「主人公」は常に一人しかいません。
「天気の子」は帆高と陽奈の二人が主役でしょう?と思われるかもしれませんが、陽奈は帆高をどこまでも容認する「記号」
実際は「君の名は。」もそういう作りになっているのですが、三葉側の描写が瀧と
そのためにそこまで「ん?」と感じずに観ることができ、たくさんの人が受け入れやすかったのだと思います。
帆高くんに都合よく話回りすぎじゃない?
帆高くん許されすぎ
てか周り犠牲払いすぎじゃない?
今回の「天気の子」は無修正の新海ワールドだったため、このような違和感が多くの方にはっきりと、体感としてわかっていただけると思うので、非常に書きやすいです。笑
「大人はわかってくれない」-The Catcher in the Ryeの世界-
この場所は俗物と欺瞞に満ちている。ここではないどこかへ行きたい。
「息苦しいんだ」
「帰りたくないんだ」
これは、帆高が繰り返しつぶやく言葉です。
東京に出てきた帆高は「The Catcher in the Rye(ライ麦畑つかまえて)」をバイブルのように持ち歩いています。
ちなみに帆高が故郷の離島で自転車を飛ばし(おそらく父親に殴られて家を飛び出し)「光の水溜り」の中に入りたいと追いかけるも崖に阻まれるシーンがありますが、「The Catcher in the Rye」でも、主人公の少年が殴られて世界に嫌気がさすシーンがあります。
「ライ麦畑」とは大人たちのいない美しい世界のことで、少年はそこで遊ぶ無邪気な子供たちが崖から落ちそうになった時に捕まえられる「ライ麦畑のキャッチャー」に自分はなりたい、と願います。
「天気の子」に登場する「光の水溜り」とは、黄金色に輝く「ライ麦畑」を表しているのでしょう。
それを追いかけて帆高は東京へ向かい、そこで陽菜と出会います。
ある意味で陽菜は穂高を崖から落ちないよう捕まえた「ライ麦畑のキャッチャー」であり、少年を少年のまま留めておく役割を担っています。
「光の水溜り」(屋上の鳥居もそうですね)つまり「ライ麦畑」の中で出会う少年少女の、これはジュブナイル作品なのです。
こういう気持ちは、子供の頃は誰もが持っていたと思います。
子供の頃、世界の危機はいつだって目の前にありました。
気づいているのは自分だけ、だから、世界を救えるのも自分だけ。
大人に言っても聞く耳を持ってもらえない。
どんなに知らせても、
子供たちにとってそこは息苦しく、もっと、汚れていない場所へ行きたい。
ここではないどこかへ。
そうして行きついた東京の街も、理想だけを追いかける帆高には「こわい場所」でした。
しかし、須賀、夏美、陽菜、凪という疑似家族を得て、陽菜の力で街を「光の水溜り」にすることで、「東京」は次第に彼らが子供のまま過ごせる「ライ麦畑」となっていきます。
余談ですが、冒頭のフェリーのシーンや、東京の路地の上空に「雨の魚」を無意識に呼んでいるのは帆高なので、帆高は「雨男」と思われます。
登場人物の気持ち(内面)が世界の様相(外面)を変えてしまう「セカイ系」の作品のため、帆高が東京に来たことで雨は加速したのでしょう。
帆高の出身は伊豆諸島の「神津島」がモデルとされています。
古くは「神集島」と呼ばれ、神々が命の源である「水」を、どこにどれくらい配分するかを会議した「水配り」と呼ばれる伝説がある島です。
須田がフェリーに乗っていた理由。
船内に避難せず甲板にいた理由。
訪ねてきた帆高に「晴れ女」の取材をさせる理由。
夏美が須賀と帆高が似ていると話す理由。
須賀が不自然に泣く理由。
「もう一度あの人に会いたい」という帆高の叫びに、須賀が急に心変わりする理由。
これらの理由から、帆高と陽奈/須賀と明日花(亡くなった須賀の妻)が並立して描かれていることがわかります。
一応書いておきますと、須賀は神津島に「水配り」の取材に来たのでしょう。
須賀の娘の萌花は喘息があり、雨の日は体調を崩してしまいます。
東京は雨の日が続いていたので、須賀が取材で水や雨などの天候ネタを優先させるのは不自然なことではありません。
天候が崩れるので船内に戻るようアナウンスされたフェリーの甲板に、帆高と須賀だけが出ています。
これは帆高と須賀が、夏美の言うように似ている、つまり「同じ運命を背負った者」であることを示すための描写です。
帆高が無意識に呼んだ大きな「雨の魚」は、その後帆高が東京へやって来ると路地の上空にも現れます。
また須賀の亡くなった妻である明日花は「晴れ女」であったと思われるため、須賀は無意識に「晴れ女」の取材を帆高にすすめます。
陽菜が人柱となり晴れた東京で、須賀は半地下の事務所の窓を開けて水没させます。
その浸水の先に萌花の成長を刻んだ柱があり、その印は祖母に引き取られる2歳頃、つまり妻の明日花の死を境に終わっています。
妻の死、喘息の娘、人柱の結果としての晴れ、その残骸の水。
訪ねてきた刑事の安井が帆高について「そこまでして会いたいと思える人がいるのは羨ましい」と口にすると、須賀の目から不自然に涙があふれ出します。
ここで、妻の明日花が喘息の娘のために晴れを願い、人柱となって死んだことが観客にわかる作りになっています。
「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」について描くときに、キャラクターが意識と関係なく涙を流すのは「君の名は。」の瀧や三葉と同じで、新海作品の「パターン」のひとつです。
この「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」については後ほど書くことにします。
帆高と同じように須賀もかつては家出少年で、その先で明日花と「運命」的に出会い、周囲の反対を押し切って結ばれました。
しかしまたも「運命」により明日花は犠牲を払って消えてしまい、残された須賀はそれまでの出来事、帆高が言うところの「本当のこと」を忘れています。
新海作品には「運命」により「特殊な力を持った女性」には植物の名前がつくという「パターン」が見られます。
明日花、陽菜、おそらく萌花もそうでしょう。
「君の名は。」の宮水家は、祖母から一葉、二葉、三葉、四葉と名前の漢字の他に、誰かと入れ替わるという「運命/特殊な力」も引き継いでいます。
ちなみに明日花の旧姓は「間宮」といい、宮水家と同様「宮」の字からわかるように、神事に関係のある家柄です。
陽菜の母親の病室にも「雨の魚」が入ってきますし、形見として引き継がれた「雨の石」のチョーカー(首輪)は陽菜が「晴れ女」の「お役目」から「解放」されると外れます。
神々の島からやって来た、空に選ばれた少年。
東京の廃ビルの屋上で、人類の人柱となった少女。
二人は運命的に出会い、世界の形を変えてしまう。
そしてその運命は、世代を超えて繰り返されている。
そして世界を変えてしまうそのような力も、世界の秩序も、極めてざっくりとした神話に裏付けられています。
例えば今回の「天気の子」ならば、お盆(彼岸)という仏教的な考えと、人柱や自然現象に神を見る神道的な考え、精霊馬を鳥居に置いてしまうような部分も、取材先の神主が800年前の天井画を見せることで、神仏融合時代の話として
天災や地形の変化、それらと人の営みとの関係も、アントロポセンの文字を画面に映したり、瀧の祖母による「昔語り」によって
ストーリー全体の整合性も、光の水溜りを追って帆高が東京へ行き、結果として東京に大量の雨をもたらすということ自体が「水配り」であった、という風に・・・
とりあえずは「説明ができる」という体裁をとっています。
「君の名は。」の瀧と三葉の名前は、日本神話のタキツヒコとミヅハノメから取っているのでしょうが、これはどちらも雨神ですし、また瀧と三葉は「天気の子」にも登場しているため、新海誠さんが常に神道イズムの力を借りて、個人的に描きたい、信じたいとしているものの説得力を、過去の作品と通して補強しようとしているのがわかります。
帆高はホタカミノミコトから、陽菜はアメノヒナトリノミコトがモデルでしょうが、その説明は序盤の「占い師」の口からなされています。
「スサノオ」の妻であるクシナダヒメは、ヤマタノオロチへの生け贄、つまり「人柱」であったため、明日花が晴れ女であったことを裏付ける要素として「スサノオ」から「須賀」が、常に二人の女の子に囲まれている「凪」は、コノハナサクヤビメとイワナガヒメの姉妹に嫁がれる「ニニギ」からとられているのでしょう。
「君の名は。」の終盤で登場する「須賀神社」はスサノオが祭神ですが、ホタカミノミコトを祭神にしているところもあり、須賀が帆高を庇護する流れも、一応は汲み取れます。
また神話だけではなく、既存の現代作品、具体的には宮崎駿監督の作品の力を借りて説明しようとしている箇所もあります。
「千と千尋の神隠し」からは、千尋とハク(ニギハヤミコハクヌシ)の二人が過去に出会っていたという事実、そして忘れていた名前を思い出すというあの有名な落下のシーンが、雲の上から帆高と陽菜が落下するシーンとしてそのまま使われています。
ハクと千尋の「運命性」や「神話性」、湯婆婆(敵対する世界)に対しての「共に対峙する決意」を、帆高と陽菜に置き換え、再生しているのです。
また「雨の魚」は「崖の上のポニョ」からきていると思われますが、「崖の上のポニョ」自体が「ワルキューレ」がベースにされているためそもそもが神話的な上、ポニョが魔法の力を失って人間になることを宗介が受け入れるという流れは、晴れ女の役目を放棄した陽菜を帆高が受け入れるという形にそのまま対応しています。
このように、新海作品は神話や既存の物語の設定を多分に借り、説明的に使用しています。
こうしたオリジナル設定の乏しさ、ストーリーの構成的な精度の低さは、見る人の好みが分かれるところかもしれません。
話がそれましたが、ライ麦畑に戻ります。
当然この「ライ麦畑的な生活」は長くは続きません。
須賀と夏美もライ麦畑側の人間ではありますが、そこから出なくてはいけないとも感じています。
夏美が履歴書の志願理由に書いた「一員になりたい」という一文がフォーカスされることからもわかる通り、いつかはライ麦畑の外に出て行かなければ、社会の一員にはなれないのです。
「光の水溜り」=「ライ麦畑」と考えると、人柱となった陽菜が連れていかれた雲の上の草原は、まさに大きな光の水溜りであり、大人(他者)の存在しない、自分だけの、美しく独り善がりな世界です。
そこへ帆高がやってきて「共に崖から飛び降りる」ように陽菜に言います。
そして「ライ麦畑」から飛び降りた陽菜を、帆高は「崖の外で捕まえる」のです。
かつてライ麦畑のキャッチャーになることを夢見ていた少年は、地上にいる須賀と夏美の「子供」の部分を昇華するように連れて空へ行き、かわりにそこから陽菜を連れて地上へと落下していきます。
もうそこに、ライ麦畑がないとしても。
これが帆高が出した答えですが、この映画には問題があります。
帆高の選んだ答えが「東京の大水害」という、多くの人を巻き込んだ現実的な困難に結びついていることです。
「The Catcher in the Rye」は雨の中の安堵で終わりますが、「天気の子」も降り続く雨の中、アンサーソングの「大丈夫」が流れて終わります。
ライ麦畑から飛び出す=子供が社会の中へ出ていく時の葛藤は、通常世界を変えてしまうようなことはなく、子供たち自身の中で起こる変化です。
しかし新海作品は「セカイ系」のため、主人公の決断が世界の様相まで決定してしまいます。
このため、冨美、須賀、アンサーソングからの回答である「大丈夫」が、ライ麦畑の卒業という少年の選択に向けられたものなのか、個人の願いを優先した帆高の責任に対してのものなのかが曖昧になってしまいました。
また須賀や夏美が結果的に帆高に「代行」させただけで葛藤を昇華してしまう点や(もちろんその後のストーリーもあるでしょうが)、陽菜が同じ方を向いてくれなければ帆高は今もライ麦畑を選んでいただろうという点において、すべてが「都合がよく」出来ていてリアリティに欠けるということ、つまり新海誠さんの作品そのものが、未だ「ライ麦畑」を脱せていないことにより成立しなくなってしまっているという根本的な問題を抱えています。
「作品の問題点」-災害、正義、性の記号化-
「災害」の扱われ方について
個人の願いと世界の秩序。こうしたミクロなものとマクロなものが対比されて、個人の願
君の名では「死んだ」三葉を救いたいという個人の願いから、時を
だいぶチートでタブーな
彗星の落下で、一つの村が消滅する。
そこにあった景色、生活、命が、あの日なくなってしまったという
もしも戻って災害を防げるなら?悲劇をなかったことにできるなら
大切な誰かを守れるなら?まだ、間に合うなら?
思いを共有できたから、瀧や三葉と共に、私たちは走っていたのだと
しかしこれは決して現実的ではありません。
だから批判があるのは当然で
命は、都合よく戻ったりはしません。フィクションではないからです。
しかしあの時、仮初めでも私たちはスクリーンの中でひとつの村を守ること
3.11で私たちに植えつけられた無力感が、あの一時だけ消えた
こんな風に「君の名は。」は絶妙に「新海色」が消臭された作品でした。
そこに細やかな風景描写とキャッチーな音楽、少年少女の一
「天気の子」も消臭されていないだけで中身は同じです。
しかし前作でひとつの村を救った「私たち」は、今回は二分されているでし
世界の秩序より個人の願いを優先させたのは、瀧と三葉/帆高と陽
「君の名は。」では、個人の願い(過去をなかった
ミクロな願いを選んだ場合、前回は災害を未然に防ぎましたが、今
私がこの映画で一番問題だと思ったのは、瀧の祖母である冨美の台詞です。
私は、これは冨美に言わせては一番いけなかった言葉だと個人的に思いまし
帆高たちの行動により、冨美の家は水没し生活を奪われてしまいま
しかし冨美の口から「元々は海だった。だから元に戻っただけ」と
また須賀からも「気にするな。世界は元から狂っている」と免罪さ
徹底的に帆高(新海監督)は免罪され、救済されるようになっているのです。
実際の被災者である冨美の口から「仕方のないことだった」と言わ
それは被災者が決めることであり、自己の免罪には使ってはいけな
こうした自己免罪・自己救済のため映画作りを続けているため、新海作品が苦手だという人が一定数存在するのは理解できます。
「アントロポセン的な」冨美の「昔語り」と、衛星的視点からの「水没した東京」の画は、日本神話の「国生み」を表しているのでしょう。
雲の上の草原、日本神話でいうところの「高天原」に上がり、そこで結ばれた帆高(ホタカミノミコト)と陽菜(アメノヒナトリノミコト)が地上へ下る。
そこでは穢れた大人たちによる現代社会の象徴「東京」が、「雨」で「浄化」されています。
繰り返される神話に裏付けされた「大丈夫」には、リアリティのある努力を私たちが選択するという余地はないのです。
「正義と悪の単純化」について
正義を果たすべきキーアイテムとして「銃」が登場します。
これは現代社会において極めて問題がある設定だと思いますし、おそらく最も批判される点だと思いますが、古典的、典型的な男性性の象徴、特に「少年(新海誠さん)」の個人的なコンプレックスとして登場することは理解できます。
心理的に銃は男性性の象徴であり、強い大人たち(警察)に対抗する力を非力な少年に与えるものです。
ナイフで刺したり拳で殴るなどの直接的な行動は相手と一対一で向き合わなくてはならず、また実際に反動が体感として得られるため「力」を感じたいときに使われますが、銃のように離れた場所から多勢の状況を支配できる武器は、力に自信がなく行動に伴う責任から目を背けたいときに使われます。
「警察」も「児童相談所」も「大人(須賀)」も「迷惑をかけずに生きているぼくたち」を放っておいてはくれず、それぞれを引き離そうとする分からず屋の「悪」として描かれています。
なぜなら大人たちは本当のことを知らず、また知ろうとしないので、彼らの理解者にはなり得ないのです。
自分たちの世界の境界で危機に直面した少年少女は、全力で彼らに抗わなくてはなりません。
少年期の感覚として、これは経験者の多い感覚かもしれません。
この愚かさは少年に安易に世界へと銃口を向けさせ、引き金を引くよう囁きます。
世界を変えられる力が、彼らにはあるはずなのです。
そして世界を変える責任も、運命も、彼らのその小さすぎる肩に乗っています。
少年期の世界観とは、そのようなものかもしれません。
これは一種のリアリティある感覚や経験ではありますが、必ずしも「リアル」であるとは限りません。
警察も児童相談所も周りの大人たちも、実際には子供たちに耳を貸し、助けてくれる場合もあります。
また「正しい」と思うことを果たすためなら、銃を使っても、警察に追われても、社会のルールを破っても行動するべきという描き方は、現実の私たちに与えるメッセージとしては極めて大きな危うさを持っているでしょう。
「君の名は。」で発電所を爆破するという破壊行為が肯定的に描かれたときもこの点は問題になりましたが、「正義」を成し遂げる困難さの強調として「犯罪」や「破壊行為」を持ち出すという安易性と危険性は、批判され続ける必要があると思います。
「女性の記号化」ジェンダーの描かれ方について
「君の名は。」でも「天気の子」でも、特殊な力を持っているという点で、女性キャラクターにも主体性があるように誤解されがちですが、彼女たちは「巫女」という、まさに「献身」のための存在でしかありません。
また「天気の子」ではフェリーの甲板で帆高が「禊の雨」を受けていますが、これは神の歓迎を示す事象のため、天(アメ)に選ばれ東京へ遣わされているのは、陽菜ではなく帆高です。
彼女たちは主人公である少年に対して理想的に動き、物語をサポートする「人柱」として常に一方的な犠牲を払わされています。
そしてどんなに犠牲を払っても、彼女たちは主人公の少年を「好き」であり、彼らの決断を支持し、自らの存在が彼らのおかげであると感謝さえします。
そして女性が「眺める対象」として描かれる部分も、新海作品に批判がある理由の一つでしょう。
陽菜の体を見て「風俗には向いていない」と言う帆高のセリフや、夏美のセックスシンボル的な描かれ方などは、少年のリビドーとしては健全かもしれません。
しかしこのような男性の理想としての女性像、つまり現実とは異なる「記号としての女性」が未だに描かれ、消費され続けることが「日本では受け入れられている」のだと受け取られることが対外的にどのような意味を持つのかは、私たちひとりひとり、関わる企業の一つ一つが、真剣に考えなくてはならないことだと思います。
「凪」というキャラクターと「子供の貧困」について
ここで、個人的に良かったと思う点も書いておきたいと思います。
私は「子供たちの貧困」が描かれたことは良かったのではないかと思います。
個人的に「天気の子」で一番好きなキャラクターは凪です。
「イメージされた現代的で都会的な男の子」ではありますが、リアリティのある部分もあるからです。
可憐な容姿と女の子たちに対する人心掌握術に長けたませた小学生、というのは、一見単純に見えますが、彼は「貧困」を隠していません。
サバイバル・スキルとして小綺麗な身なりと容姿、そしてコミュニケーション能力を意識的に身につけ活用していますが、その姿のまま安売りのネギを買って帰り、児童相談所に保護されたことも女の子たちに素直に知らせています。
女の子たちも凪を評価するときに家庭的な事情(経済的な事情)には関心がないように見えます。
「貧困」は彼らにとってもはや日常の一つであり、上辺だけの「虚構」も生き抜くすべとして甘受しているように見えるのです。
この点において凪は帆高とは対極的なキャラクターであり、世界が欺瞞に満ちていることを既に受け止めながら、それでも陽菜との小さな「ライ麦畑」を汚さないように守って生きているように思えます。
「陽菜と一緒ならどこでもいい」というのは彼の世界の真理であり、全てなのでしょう。
このアンバランスさがむしろ作中最もリアリティを持ったキャラクターに思えました。
帆高と違い、陽菜の個人性が貧困の犠牲になっていることを理解していますが、それを世の中の理不尽のせいにせず、大人になって自分が支えられるようになること(それまでは心配をかけないように明るく振る舞うこと)、姉を独り占めするのではなく帆高が入ってきて姉が個人の人生を少しでも充実させられるのならそれを支持するという、現実的な痛みを伴った選択をする一方、女の子たちを利用しても姉を取り戻すという自分本位な部分も持っています。
帆高が陽菜を理想の象徴として縋っているのとは違い、自らの人生の答えとして陽菜の重要性を凪は持っているからです。
作中描かれている「子供の貧困」もイメージされた部分が多いかもしれませんし、少年少女の純心性を際立たせるために選んだ題材であれば真新しさはありませんが、それでもこの凪を貧困の中で描いたことを私は好ましく思います。
「思い出せない誰か/忘れてしまった何か」-少年期の「喪失感」の処理の仕方-
新海作品の主人公は、いつも大きな「喪失感」を抱いています。
少年期の喪失感を大人になっても抱き続けているキャラクターはビールとタバコに溺れるという、新海作品の「パターン」があります。
例えば「秒速5センチメートル」の遠野、「天気の子」の須賀などです。
少年期の「喪失感」が作り出す「ここではないどこか」や「運命の相手」の存在を「ないのだ」と捉えることを徹底的に拒絶し「あるのだ」としてしまったのが、新海誠作品の最大の「こじらせポイント」であると私は考えています。
新海ワールドでは「ここではないどこか」も「運命の相手」も存在しています。
少年少女が見ているのは本当に「世界の真の姿」であって、大人たちは「見えていない、忘れている」のです。
そして少年少女に「本当のこと」を「見えなくさせようとするもの」、大人たちに「思い出させないようにしているもの」とは、スピリチュアル的な、宇宙の法則のような大きな力であり、私たちの世界ではそれが太古の昔から繰り返されている・・・
つまり、我々は生きた神話の中にいて、私たちは「神話そのもの」である、ということです。
これはもう、少年期の「喪失感」とはなんの関係もない話なのですが、なぜか「喪失感」の「正体」として「神話」が使われてしまっています。
「運命」に遭遇するも「神話的な力」により消されてしまったその記憶が「思い出せず」涙を流す、瀧や須賀。
彼らの「喪失感」は「本当」であって、それは酷く意地悪で残酷なカミサマが見えなくしてしまった「現実」なのです。
新海誠さんが「大人としての責任がある作品を作れない」と言われるのは、ここではないかと、私は思っています。
おそらくご本人が未だ少年期の「喪失感」を解消できずに抱き続けていて、その答えとして「神話」を見つけてしまったこと。
「本当のこと」をみんなに教えてあげることが、ご自身の使命であり、運命であり、喪失感を癒やす唯一の方法であると、今もひとり「神話」の中を走り続けていらっしゃるのではないでしょうか。
少年でいるための「ライ麦畑」を自ら作り出せるようになってしまった大人は、永遠に少年でいるしかないのかもしれません。