FROZEN考察ブログ

映画FROZEN(アナと雪の女王)の考察ブログ

【FROZEN2考察】アグナルとイドゥナの過去について

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先日アグナルとイドゥナの過去について何気なく以下のつぶやきをしたところ、内容の説明を求められたので、お答えしたいと思います。

ブログの記事にするほどのことではないのですが、ツイートで説明するには少し長いのでこちらに書くことにしました。

 

まず、アグナルが幼い姉妹に昔話をする際、アグナルの記憶に出てくる声についてです。

イドゥナバレ()を防ぐためにAURORAさんなんじゃないの?物語の都合上の演出だよ!いう意見もあると思いますが、とりあえず実際の声がAURORAさんなので、ここではAURORAさん(=アートハラン)として考えていきます。

 

エルサがアートハランで記憶の雪像を見てまわるとき、少年時代の両親と、大人時代の両親が出てきます。

このシーンが伝えたいのは、単に姉妹の両親が子供の時から知り合いだった、ということだけではないのではないでしょうか。

 

まず、少年時代のあの場面がいつ頃かという話ですが、アレンデールとノーサルドラの戦いの前と思われます。

理由はイドゥナの民族衣装です。

仮にあれが戦いの後だとすると、国王を討った(と思われている)民族の娘がそれとわかる姿でアグナルに近づくのはかなりリスクがあるからです。

しかしアグナルとイドゥナに人目をはばかる様子もないので、あれは戦い以前の一場面であると思われます。

注目すべきは、この時既にアグナルがイドゥナの顔と名前を認識していることです。

 

次に大人時代の両親ですが、ここでイドゥナが「過去のことを話したいの、どこから来たのか」と、自らの正体を明かそうとするような発言をします。

(私が字幕を一回しか観てないので間違ってたら教えてください。例えばどこから来たかの主語は英語だとイドゥナじゃなくてエルサのことだよ、とか)

ここでイドゥナが明かそうとしているのが自らの正体だとすると、ある矛盾が生まれます。

それはアグナルの中で、子供時代のイドゥナと大人のイドゥナが繋がっていないということです。

アグナルは姉妹に昔話を聞かせる際「声の主は誰だかわからない」と語りますが、個人的にあの時点では、本当にわかっていないのではないかと思います。

そしてアグナルと共に森を抜け出したイドゥナですが、それは彼女が故郷に戻れなくなったということでもあります。

アレンデールで孤児として暮らす、ましてや国王の妻となるのなら、当然出生については偽っていたと思いますし、実際エルサとアナもイドゥナがノーサルドラであることは知りませんでした。

イドゥナはアレンデールに来てからも、偽名ではなく本名を名乗り続けています。

いくら髪型や服装を変えたとしても、それでは顔と名前でアグナルには正体がわかるのが自然です。

もちろん、アグナルは気づいていたが黙っていたor二人だけの秘密にした、という可能性もなくはないですが、そうすると「本当のことを話したい」というイドゥナの言葉は不自然に感じられます。

 

そこで考えられるのが「アグナルからイドゥナの記憶が消えている」という状態です。

アグナルは石に頭をぶつけているのでそれで記憶がなくなったということ?と思われるかもしれませんが、そうではありません。

事実、アグナルは魔法の森での楽しかった出来事や、戦いの惨劇は細かく覚えています。

ぼやかされているのは、風と戯れていた「誰か」についてと、父親の死の真相部分の記憶です。

(アグナルは父親がノーサルドラに崖から落とされたと思っていますが、決定的な瞬間は木に隠れて見えていないので不明です)

そして石に頭を打って倒れてしまい、ぼんやりとした意識の中で体が浮き、不思議な声を聞きます。

 

この時、アグナルは生きて森を出ることを許されましたが、イドゥナのことも記憶から消されたのではないでしょうか。

ちょうど、パビーがアナの記憶からエルサの秘密を消したように。

 

私はイドゥナは人間だと思っているので、イドゥナの声では人の記憶を消したり書き換えたりはできないと思っています。

またゲイルをはじめ4精霊にもそのような力はないように思います。

私の考えでは、あの時アグナルが聞いたのは、直接「頭」に入り込んできたAURORAさんの声、つまり「記憶」を司るアートハランの声です。

厳密に言えば、この時音として周囲に響いていたのはイドゥナの声であり(ハニーマレンが言うように、この声はその時森にいた他の人間にも聞こえます)アグナルの頭、あるいは心に働きかけているのはアートハランの力である、という描き分けの表現として、AURORAさんとイドゥナの二通りの声が登場するのではないかと思っています。

また1作目でアナはパビーに「頭」を丸め込まれ、記憶を改竄されましたが、ハンスに白い髪のことを聞かれた際「夢ではトロールのキスでこうなった」と答えているため、記憶を消された当人たちも、当時のことを所々は覚えているようです。

 

アグナルと再会したイドゥナは、彼の記憶から自分が消えていること、二人の間に授かった子供が魔法をもって生まれたことなどから、自分たちの身に起きていることの背景に、あの森での出来事が関係しているのではないかと思うようになったのではないでしょうか。

そしてエルサが誤ってアナを傷つけてしまったあの晩、奇しくもアグナルと同じように、娘のアナが姉との大切な思い出を書き換えられ、魔法の存在を記憶から消されてしいました。

自分のパートナーと娘の一人(アナ)が、愛する人の真の姿を知らずに生きていくことになり、自らと娘の一人(エルサ)は、愛する人から真の姿を隠して生きていかなくてはならなくなったのです。

エルサの力は日毎強くなり、我が子にはいつ明けるとも知れぬ孤独な日々が待っている。

そうなった時、イドゥナは真実をアグナルに打ち明け、二人でこの運命を打開するため、全ての真相を探る決心をしたのではないでしょうか。

それが、エルサが見た、アグナルに対するイドゥナの告白の記憶です。

 

やがて両親はアートハランが魔法の源であること、その場所がダーク・シーの先にあることを突き止めます。

(もちろんイドゥナが単独で調べていた情報をアグナルに伝えた可能性もあります)

そして道中「All Is Found」の歌詞にあるように「溺れて」しまいますが、6年後、運命に導かれてやってきた自分たちの二人の娘によって、旅の真相と最期の瞬間を「見つけて」もらうのです。

個人的に「All Is Found」に「drown(溺れる)」という単語が出てくるのは、この曲が姉妹だけでなく、アグナルとイドゥナのことも歌ったものだからだと感じています。

 

祖父から始まり、父と母が起こした真実を知るためのアートハランへの旅を、その娘たちが引き継ぎ、「答え」を見つけ辿り着いたのですから、まさにこれは北欧神話、そして北欧文学のサガ(saga)と言えるでしょう。

姉妹が両親の船で見つけた謎の文章(THE LEGEMD OF AHTOHALLAN)も「アートハランのサガ」と言えそうです。

王のサガ、アレンデールのサガ、ノーサルドラのサガ、姉妹のサガ、アートハランのサガ、そして雪の女王のサガ。

「FROZEN」を2作でひとつの作品と位置づけ、また「神話」と「おとぎばなし」の2軸を融合して進めた本作は、意図してかはわかりませんが、内容的にも、構造的にも、最終的に歴代のノルウェー王の伝記、アイスランドの植民を物語る「saga」そのものの形態をとることになりました。

「FROZEN」は壮大でありながら「saga」の形式に綺麗に収まっただけでなく、その内容も、スカンディナヴィアの地に古く、そして新しく誕生した伝承のようです。

 

 

さて、ここからは余談です。

 

イドゥナは不思議な文字が書かれた用紙に「アートハランは魔法の源」と書き留めていますが、アナはこれ読んで、エルサの「力の源」ではなく「エルサの源」と表現します。

アナは本能的に、魔法がエルサそのものであり、エルサがそこからやってきたことを理解しているのかもしれません。

ートハランに一人で向かうと言うエルサに「エルサが溺れたら誰が助けるのか」と主張するアナですが、オラフと共にエルサに安全な場所へと押し出されてしまいます。

これは魔法の森から安全な場所へと運び出されたアグナルを思い起こさせますが、その流れに抗い、同じように激しく頭を打ちつけても自力で立ち直り、更にアートハランの深淵で「溺れる」エルサを救い出すのですから、アナは簡単に父親を超えてしまいましたね。笑

〈補足〉

アナの「エルサの源」発言について以下の情報をもらいました。

イドゥナの文字で「Elsa’s source?」と書き込まれているそうです。

 

 

アンデルセンの原作では、悪魔の鏡の破片が天から降り注ぎ、それがカイという少年の眼と心臓に当たって、彼の性格を変えてしまいます。

映画の冒頭でアレンデールに降り注ぐ4エレメントの氷は、この鏡の破片をもチーフにしているのかもしれません。

今回の作中、何かが「刺さる」のは、オラフとアナです。

特にオラフはアレンデールの「子供たち」から降り注いだ氷を、ノーサルドラの「子供たち」から自分の手(木の枝)を、それぞれ顔や頭に刺されています。

悪魔の鏡の破片が刺さるということは、心に「疑い」が芽生え、物事や相手のことを信じることが難しくなるということです。

これは決して悪いことだけではなく、心の成長、つまり「子供」から「大人」への「変貌」に欠かせない過程です。

オラフは前作から成長し、たくさんの「疑い」を世の中に抱くようになったからこそ、今作で信じきれないことや対処しきれないことへの「怖さ」を口にしています。

そのためアナにしきりに「変わらないもの」について、つまり「なにを信じたらいいのか」について聞くのです。

オラフにはアナが、とても頼もしく見えているのかもしれません。

アナのような大人になって、変わらないものを見つけ、それを信じられるようになれば、生きることは怖くなくなるのだと思っています。

一方アナは、動き出した氷の船の進路を変え川へと飛び出した際、木に頭をぶつけて髪に小枝が刺さります。

そしてそれを自ら引き抜きながら、初めての怒りの感情に戸惑うオラフに対し「オラフにはものすごく怒る権利がある」と言うのです。

これは「自分の感情は自分のものとして、ありのままに感じていいし、隠さなくていい」ということをオラフに教える言葉であり、エルサが苦しんできた「Don't feel,conceal.(感じてはいけない、隠さなくてはいけない)」とは真逆の教えです。

これは今作の大切なメッセージのひとつとして「Reindeer(s) Are Better Than People (Cont.) 邦題:トナカイのほうがずっといい 恋愛編」の中で、スヴェンからクリストフに対しても語りかけられます。

 

アナはオラフにとっても、私たちにとっても、大人としての良い手本なのかもしれません。

エルサが両親の旅の目的を知り、その死の責任が自分にあると自らを責めた時は「旅に出ると決めたのは母と父であり、エルサには関係がない」と、課題の切り分けをきちんとしてくれますし、自分の希望を伝える際も「エルサはエルサの進みたいように進めばよく、それを止める気はない。ただ自分はそのサポートをしたい」と極めてアサーティブな態度をとってくれます。

前作では姉妹共に愛着に不安定な部分があり、だからこそ多くの人の共感を得ましたが、今作の姉妹は私たち観客の指針となるような、安定した愛情と勇気を見せてくれました。

アナと雪の女王」は、2作で1つの物語となったことで、より深く、力強い作品になったと思います。