FROZEN考察ブログ

映画FROZEN(アナと雪の女王)の考察ブログ

映画「TAR/ター」を観ました

 

えーと、まず私がちゃんと理解出来てないんだと思うので「そりゃミスリーディングだぜ!」というところがいっぱいあると思うし、なんか観た人の感想を読む限り「私が観たのTARだったのか・・・?」と思うくらい印象というかストーリーそのものが違う気がするので自信ないんですけど・・・一応リクエストいただいているので感想というか「こんなふうに思って観てたんですけどもしかして全然違いますか・・・?(震)」っていう、映画にもクラシック音楽にも馴染みも知識もない変な一般人(?)の初見解釈です。トンチンカンだったらすみません。先に謝っておきます。


【以下ネタバレ含む】


えーと、まず大前提として、これは大衆がぼやっと「こうだったら(自分がっていうより)今の時代っていうか社会的にいいんですよね?」とか「Z世代ってこういう感じだと叩くのに都合いいんですよね?」って思ってる「詰めの甘い仮想現実」が「現実設定」で舞台になっている作品ってことでいいんですよね・・・?

コロナ発言とかあるし「現代」の設定だと思うけど、私たちの世界線で女性指揮者が賞を総なめにして頂点君臨してるなんてないし、レズビアンで妻娘ありのところを業界権力おじさんたちにネチネチ言われてないとか、コテコテ今っぽ学生(貧乏ゆすりーとチェロっ子。名前がター以外覚えられなかったのであだ名ですみません)とか、あとこれは私が詳しくないのでわからないのですが、実力主義のため男女や人種が満遍なくいる感じのオケとかクラスとか、なんかで見たことあるアジアもしかしたら南米とかかもだけどなんかそういう神秘の異国、とか。

そういう「そうであるべきだよねと言っておいた方が善い(人になった気がするし、実際自分も思ってます)」や「彼らが持っているリスクや可能性も、彼らへの理解もありますよ(知らんけど大体知ってます)」で私たちの頭の中に描かれている「現実(リアル)」を覗いている=今私たちが現実に「見ている」世界って設定ですよね・・・?

なんか、ターが政治できないとか、学生が典型的とか、そういうのを「『作品』としての解像度の甘さ、詰めの甘さ」みたいに言われてるのを見たのですが、私はそういう「『私たちの』解像度の甘さ、詰めの甘さの『現実』で起きること」を描いているものだとばかり思っていたので、あれ、これもしかしてリアルガチ設定として評価するものなのか・・・?と、まずなんかその時点で冒頭からズレて観ていたかもしれません。

なのでそのつもりでお読みください。

 


まず冒頭のシーン、民族の歌みたいなのをキャッキャする子供の声と録音してるあれは、ラストのモンハン下積み時代みたいなのと、違うけど同じものだと思いました。

がっつり合致ループじゃないにせよ、ループものとして観れるようになってると思います。

そう思った理由は、次に来るインタビューのシーンで「指揮者はメトロノーム説」発言に「そういう面もあるが、指揮者こそ時間」とターが前のめりになるからです。

4年だか南米だかの民族と暮らしたことになっているターの紹介。

この「だか」で保留したまま進めちゃう私(映画を観ている多くの人)の解像度のガバさで観てくださいなってことなんだなと理解しました。私が。

紹介される経歴だとクラシックのみならず超多ジャンルで賞をもらってる超人ター。

映画音楽も〜とか言ってたので、私は単純にじゃあゲーム音楽とかもやってそうだなと思って観ていて(ドラクエオーケストラを思い出したので)あのラストは、ああ、あのファジーなアジアのミステリアス人物たちとモンスター狩ってそうなハンター民族っぽ観客たち相手にしてたのが4年の民族音楽研究経歴ってことで語られてるんだな、と思いました。

あの「冒頭のエンドロール」裏で流れている音源。

私は最初、聞きなれない民族の歌に聞き耳を立てていたので、子供の声が気になりました。となるとその「雑音」を排除できないチープな録音環境を想像してしまいます。

それにぶっちゃけ初めて聞くもんだからこの歌が上手いのか下手なのか、テンポや音程が合ってるのか合ってないのかわからない。

てかそもそもそういうの自体がない自由なものなのかも?たぶん民族の歌ってそういうものでなんでしょう、そう考えると子供の無邪気な声が入ってるのも音楽と自然と人々の営みの融合で崇高なんじゃない?そんな彼らの文化や価値観(ということにしておく知らんけど)をリスペクトするしリスペクトするのが現代人よね?でわかった感で聞いている(のだと思われる)聴衆(=私たち映画鑑賞中の人)。

このインタビューでメトロノームだと言われると「指揮者は不要。時間の被支配者では?」ってことだから、ターは気に食わなくて、指揮者(時間)を超越した(不要とする)音楽は精霊信仰で過去と現在の融合だから「例外」みたいに言って、自分は時間の支配者で時間そのものだと熱弁します。

これを過去の女性指揮者たちを立ててる風で自分を「例外」にしてる流れで入れてくるあたり面白いですよね。

他にも同じ「間」を切り取るだけのメトロノーム(ロボットたち)が後にターの時間の支配者(切り抜き悪意動画拡散マン)になるのも、「神と観客の前で指揮者は己を消す」的な(うろ覚え)信条で「YouTubeで観て感動したけど指揮者は知らない」って言うチェロっ子受け入れるのも、「違っていても矛盾しない(成立する)」のをやたら入れてくるのは冒頭のループ匂わせ強化の効果があるんだろうなぁと感じました。

正直、この時ターが本当に先人の女性指揮者たちを貶めていたのかはわかりません。

そう受け取れるように意図して作られてはいるけれど、ターが言うように女性先駆者たちも正当に評価されれば第一指揮者(というのか?)になれたはずなのに結局自分の時代までそれはなかったのは、それまでは「見せもの」にされたということだという業界の歴史への苦言ともとれます。というかそういう「てい」が成立するような話し方しかその後のストーリーの中でもターはしません。

私は映画館に行くまで「ケイト様(ター)のパワハラ映画」と聞いていたので、そういう「てい」も必要としないような「お前なんかムカつくからクビな!今気分悪いからお前サンドバッグになれ!私が誰だかわかってんのか?私の一言でどうなるかわかってるよな?天下のター様だぜ!ガハハハ!」的な権力振り回し系の人物なのかと思ったのですが、副指揮者交代の時も、ソロチェリスト選抜の時も、一応「てい」かもしれないけど「私の解釈は間違ってた?」とか「オーディションにしたいんだけどいいかな?」とか「自分の楽団を指揮してみては?」みたいな発言はする。

もちろん周りは「上の存在」のターにノーと言えないし、勝手に「忖度」するわけで、ぶっちゃけこうなると登りつめちゃった人は何を言っても立場的に権力があるからパワハラだと言われる可能性があるなぁと。

ただまあ、ターが尊大な人物であることは明白で、自分の音楽が隣人の部屋が売れなくなるような「雑音」になるなんて思いもしなかったし、むしろサービスで聴かせてあげていると思い込んでいるような、パワハラあるある「喜んでいると思った」な残念な人描写があるわけですが。

私あのシーン好きです。自分が「雑音」だと思っていた隣人の生活音ですが、同じように自分の「崇高な音楽」もまたある人には「雑音」だった。でもその雑音ピーンポーンやなんちゃってアジアの雑踏やゲームのテーマ曲からだって、また冒頭でインタビューを受けるあのターの「崇高な音楽」は生まれるし、またその「崇高な音楽」は誰かの「迷惑な生活音」になる。

結局、低俗とか崇高だとかそんなものはなく「冷蔵庫の立てる音は音楽であり雑音である。それは違うけれど矛盾しない」んですよね。


インタビュー後の展開について。

告発の真相は特定できない作りになっていて正解がないので、ただ私は初めて観た時(というか今後も2回目観る予定はないのでこの感想は全部ファーストインプレッションですが)こんな風に思って見てたってだけの話になります。

あのバックレ助手がインタビュアーのセリフを覚えているところは単にループ匂わせでもあるんだろうけど、ターは質問内容知らなかったっぽい(車での会話)のでバックレ助手の仕込みなわけで、「めっちゃターのこと嫌いじゃんw」ってのが早々にバラされちゃうのが、個人的にはもちょっと引っ張ってもよかったのかなぁとも思いつつ、ゆったりした前半の中に変なテンポで彼女だけ入ってくるのは意図的なんだろうなと思いました。

なんというか、そういう点で割と親切設計?の映画なのかなぁと。アナ雪みたいに。

例えば、ターのスコア知りたいマンのあの厄介オタ男氏との食事の席で「サクラを用意して」みたいな話があるので、貧乏ゆすりーの授業のシーンでああこのクラスにサクラ(仕込み)がいるんだなってわかるようになってるし、ターの怪我も、序盤順調っぽい時はタクト(時間)を掌握する指先にほんの少しでその後を仄めかす程度、後半は偉大な指揮者としての文字通り「面子」が傷ついたり。隣人の「崩壊」と「死」に触れた後に「別人としての再生」が訪れることとか。今後こうなりますんでここ見といてくださいねーみたいなのが多い印象でした。

(追記。ここでいうサクラ(仕込み)は生徒じゃなくて、授業を録画してる人物のことです)


「時間」については多分色々な方が書かれてるだろから私が書くことはないと思いますが、カチカチペンおじさん(ターにとってのメトロノーム/ロボット)を辞めさせる時にカチカチペンを奪うのも、個人的には冒頭で副指揮者?第二指揮者?は「自分の楽団を持ててない人」になるので(カチおじ的には持ててる認識だったけど)おじさんからカチカチ(=メトロノーム)を奪うのは「支配」でもあるけど「解放」でもあるんだなと。むしろ私は後者の方を比重的には感じたタイプです。

個人的には、ターは尊大でもピュアなところはあると思っていて、自分の権力に自覚的なところと全く無自覚というか自信がない部分もあるのかなと感じています。

例えばチェロっ子をアパートに呼んだ時に、もし権力に自惚れてたらすぐ手を出してもよさそうなのに、甲斐甲斐しく世話してるし、車で送って手にキスされただけでもあの喜びよう、めちゃかわじゃないですか?健気〜。

ターの妻は自分含めターは利害で肉体関係を結ぶ的なこと言ってましたが、そもそも深い話をベッドでするのは割と多くの人がそうでは?と思うし、ターが今までいろんな人に手を出してきたとしても、恋心や愛はそれぞれに対してあったんじゃないかなぁ。10の人に10の愛を持てるタイプなんじゃないかなという印象があります。

そうそう、チェロっ子といえば、あの落書きだらけの謎廃墟にターを誘うためだけにいるような子だなと思いました。

いわゆるテンプレ今っ子でファムファタールになるにしてはだいぶ魅力に欠けるので、本当のファムファタールは亡助手なんだろうなと。でも魅了されたのはターじゃなくてバックレ助手で、ターは巻き込み事故みたいな。

「子供がいる(自分は大人である)」と言うターに対して「子供はいらない(子供のままでいたい)」と答え、幼児性のメタファーであるくまのぬいぐるみを置いていくチェロっ子。

ターはその「幼児性」を持って謎の廃墟(自分の幼少期)に迷い込み、影犬に追われ(「見せもの」は英語でdog actというそうですが、私はそれを知らなかったので、貧乏ゆすりーに反差別主義なわりにビ⚫︎チ呼ばわりされてたしチェロっ子追っかけて来ちゃったし、犬が「シャドー」な上に子供から大人への混迷の廃墟だから単に向き合えてない過去の自分像だと思ってました)、そんで明るい方へもう直ぐ抜け出せるって時に「階段」をのぼり損ねて大怪我するわけですよね。で、それを「男に襲われた」ことにする。

ターが男性に足を引っ張られてきた描写って具体的にはないですけど、明るい成功への場所、成長の階段をのぼり損ねちゃったのを男性のせいにするのや、体を鍛えてるのや、色々あったんだろうなって感じさせます。

そんでその「嘘」をついた晩に娘ちゃんに「誰よりも綺麗な人なのに」的なこと言われるの、そりゃターも色々胸に刺さっちゃいますよ。

娘ちゃんの時だけ明確にというか意図的に「男性」について描かれるター。

私は、この映画ではター自身の男性性は描かれていなくて、ターにとっての男性像があるだけかなと思っています。

足を持ってもらわないと寝られない娘ちゃん。

潔癖なのにお隣さんを助けた(いい人だと思うよター)ターは、「汚い」がマックスになると足を洗う。

生家は決して清潔とは言えなそうなター。

いじめっ子(娘ちゃん申告)に「パパ」と「大人」で威圧するター。

動物オーケストラ全員に鉛筆(タクト/作曲)を持たせたい娘ちゃんに、民主主義じゃないから全員にはできないと言うター(なおターの棚には配れる鉛筆がいっぱいストックされている)

娘ちゃんはターの心理形成を描くには欠かせないキャラですね。

余談ですが、おそらく娘ちゃんの申告のみで「いじめ」があったとされ、よく知らない人に脅されることになった赤い服の子。

私あれが唯一明確に描写されたターのパワハラだと思っていて、その構造がそっくりそのまま炎上と告発という形でターに返ってきます。

他のパワハラの真偽をはっきりさせない意味が二重にあっていいですよね。

ちなみに雑音ピーンポーンのインスピレーション曲に娘ちゃんへってタイトルをつけるのは、雑音が音楽で音楽が雑音として扱われていただろうターの幼少期に、自らの原点であり未だ迷子の「ター」自身のための曲だからだと思います。


事件の真相はわかりませんが、私は事前にパワハラ映画だと聞いていたので、最初バックレ助手が号泣しながら「三人で旅した時は楽しかった」って言った時、ああ、旅行先でこの二人が亡助手に性的な乱暴したか三人で儀式的な快楽行為でもしたのかなと思って、温度差からターにとってはその人は多くのうちの一人でどうってことないけどバックレ助手にとってはお気に入りだったんだなと感じました。

儀式的なっていうのは、亡助手のシンボルがトライバルでそれにやたらターが怯えているし、ランニング途中の悲鳴を聞くのも森、悪夢も森のベッドなので、旅先の小屋とかでなにか「神秘的な」(という観客の雑で勝手な解像度で想像される)きっかけになる出来事があったのかな、と。

ただターは旅行のことを言われても動揺してないし、悲鳴を聞いて探しにいったり、その後のターという人物像の描かれ方から、ターはあんま関係なさそうだなと思いました。

バックレ助手は亡助手に執着してて、でも亡秘書はターに心酔していたかもしれない。ターはそんなでもない。

あの悲鳴はターとバックレ助手が亡秘書をいろんな意味で手にかけた暗示かと思いきや、ター自身にも文字通り真相は藪の中っぽいので、バックレ助手が愛憎渦巻いて殺してしまったのか、あるいは「無理やり」愛を向けたから情緒不安定になって別のオケへ異動したがり、事情を知らないターは様子がおかしいから推薦できないということで板挟みになり自殺してしまったのか。

なんにせよバックレ助手は亡助手のことでターが憎くて、指揮者になりたいとかではなくターを陥れたかったのかな、と。

最後のぶん殴りコンサートで、トライバルを彷彿とさせる観客席に、同時に観客が入ってくるの良かったですよね。

トライバルは亡助手のシンボルからバックレ助手の復讐のシンボルになり、それがじわじわ侵食してきて観客として「最終公演」を見届けてやろうっていう執念。


私、ターは人気の指揮者だったかもだど、あんまり愛されてはいなかったんじゃないかなと思っていて。

その中でめっちゃ好きじゃんなお前っていうのが、最後にぶん殴られたパクリ厄介オタクなんですよね。

ちなみにあのぶん殴りはパワハラじゃなく単なる暴力ですね。

彼がターのスコアを知りたがるのは自分がそれを体得して名声を手に入れたいとも取れるけど、いやこいつ単純にガチ恋オタクじゃね?と思っていてます。だからぶん殴られたのは暴力なんですけど「おーおーお前よかったな〜」って思ってしまって。

だってリアルタイムに生み出されたターのスコアを手に入れちゃったわけですから。

私は楽譜が読めないので彼が書き込んだ記号が音楽的になんなのかわからないですが、多分ターがぶん殴って止まったところに書き込んでいると思うので、あの「十字架」は「最高指揮者ターの死の瞬間」に当てつけに立てたというより、ターのスコアガチ恋オタクの最高のコレクションなんじゃないかなと思いました。作中彼は究極の「ロボット」ですよね。いいキャラです。(追記。あの十字を書いたのはオーボエ奏者だと教えてもらいました。となると純粋に墓標を立てた描写ですね)

 

 

あとは、ターはイケイケの時期も、その後のボロボロの時期も、一貫して「白人の振る舞いとして模範的」なのがいいと思います。

ファンの女の子や新聞隣人にも、生家に帰る時のタクシードライバーやごった煮アジアの人たちにもずっと「丁寧」に接している。

このいかにも「白人として正しく振る舞っている」優位性感が、ターという人の枯れないプライドを感じてすごく好きです。

そしてじゃあ口にはしないけどそういう「下の」人たちに横柄な態度をとっていいの?と言われたらもちろんダメで、「丁寧」に接するしかない。

それが「丁寧」に見える歪さが、唯一この作品の中で私たちの「現実(リアル)」と繋がっているようで私は終盤の謎アジアの雑さ嫌いじゃないです。

 

あとめちゃくちゃ余談ですが、売春宿のシーンについて。私は最初ホテルかスパに来たのにいつの間にか売春宿になってる解像度バグ亜細亜奇伝描写だと思ってたんですけど、「水槽」って受付の人が言ったので「あードクターフィッシュね。角質ついばまれてるター面白すぎじゃん」と思ってしまいました。違ったわ。

オーケストラ風に並んでる女性たち、「5番」の子が顔を上げるのもその位置がチェロっ子なのも、もちろん「5のトラウマ」で吐いたのだと思いますが、あの女性の顔が亡助手なのかな、とも思いました。

自由に泳いでいるようで実のところ「水槽」という狭い箱の中で、指名されることを、あるいは指名されないことを祈りながら首を垂れている彼女たちは、ターが今までに関わった閉ざされた世界の人々であり、ターはあの時初めてそれを外から眺めたのだと思います。

 

おしまい

 

【FROZEN2考察】アグナルとイドゥナの過去について

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先日アグナルとイドゥナの過去について何気なく以下のつぶやきをしたところ、内容の説明を求められたので、お答えしたいと思います。

ブログの記事にするほどのことではないのですが、ツイートで説明するには少し長いのでこちらに書くことにしました。

 

まず、アグナルが幼い姉妹に昔話をする際、アグナルの記憶に出てくる声についてです。

イドゥナバレ()を防ぐためにAURORAさんなんじゃないの?物語の都合上の演出だよ!いう意見もあると思いますが、とりあえず実際の声がAURORAさんなので、ここではAURORAさん(=アートハラン)として考えていきます。

 

エルサがアートハランで記憶の雪像を見てまわるとき、少年時代の両親と、大人時代の両親が出てきます。

このシーンが伝えたいのは、単に姉妹の両親が子供の時から知り合いだった、ということだけではないのではないでしょうか。

 

まず、少年時代のあの場面がいつ頃かという話ですが、アレンデールとノーサルドラの戦いの前と思われます。

理由はイドゥナの民族衣装です。

仮にあれが戦いの後だとすると、国王を討った(と思われている)民族の娘がそれとわかる姿でアグナルに近づくのはかなりリスクがあるからです。

しかしアグナルとイドゥナに人目をはばかる様子もないので、あれは戦い以前の一場面であると思われます。

注目すべきは、この時既にアグナルがイドゥナの顔と名前を認識していることです。

 

次に大人時代の両親ですが、ここでイドゥナが「過去のことを話したいの、どこから来たのか」と、自らの正体を明かそうとするような発言をします。

(私が字幕を一回しか観てないので間違ってたら教えてください。例えばどこから来たかの主語は英語だとイドゥナじゃなくてエルサのことだよ、とか)

ここでイドゥナが明かそうとしているのが自らの正体だとすると、ある矛盾が生まれます。

それはアグナルの中で、子供時代のイドゥナと大人のイドゥナが繋がっていないということです。

アグナルは姉妹に昔話を聞かせる際「声の主は誰だかわからない」と語りますが、個人的にあの時点では、本当にわかっていないのではないかと思います。

そしてアグナルと共に森を抜け出したイドゥナですが、それは彼女が故郷に戻れなくなったということでもあります。

アレンデールで孤児として暮らす、ましてや国王の妻となるのなら、当然出生については偽っていたと思いますし、実際エルサとアナもイドゥナがノーサルドラであることは知りませんでした。

イドゥナはアレンデールに来てからも、偽名ではなく本名を名乗り続けています。

いくら髪型や服装を変えたとしても、それでは顔と名前でアグナルには正体がわかるのが自然です。

もちろん、アグナルは気づいていたが黙っていたor二人だけの秘密にした、という可能性もなくはないですが、そうすると「本当のことを話したい」というイドゥナの言葉は不自然に感じられます。

 

そこで考えられるのが「アグナルからイドゥナの記憶が消えている」という状態です。

アグナルは石に頭をぶつけているのでそれで記憶がなくなったということ?と思われるかもしれませんが、そうではありません。

事実、アグナルは魔法の森での楽しかった出来事や、戦いの惨劇は細かく覚えています。

ぼやかされているのは、風と戯れていた「誰か」についてと、父親の死の真相部分の記憶です。

(アグナルは父親がノーサルドラに崖から落とされたと思っていますが、決定的な瞬間は木に隠れて見えていないので不明です)

そして石に頭を打って倒れてしまい、ぼんやりとした意識の中で体が浮き、不思議な声を聞きます。

 

この時、アグナルは生きて森を出ることを許されましたが、イドゥナのことも記憶から消されたのではないでしょうか。

ちょうど、パビーがアナの記憶からエルサの秘密を消したように。

 

私はイドゥナは人間だと思っているので、イドゥナの声では人の記憶を消したり書き換えたりはできないと思っています。

またゲイルをはじめ4精霊にもそのような力はないように思います。

私の考えでは、あの時アグナルが聞いたのは、直接「頭」に入り込んできたAURORAさんの声、つまり「記憶」を司るアートハランの声です。

厳密に言えば、この時音として周囲に響いていたのはイドゥナの声であり(ハニーマレンが言うように、この声はその時森にいた他の人間にも聞こえます)アグナルの頭、あるいは心に働きかけているのはアートハランの力である、という描き分けの表現として、AURORAさんとイドゥナの二通りの声が登場するのではないかと思っています。

また1作目でアナはパビーに「頭」を丸め込まれ、記憶を改竄されましたが、ハンスに白い髪のことを聞かれた際「夢ではトロールのキスでこうなった」と答えているため、記憶を消された当人たちも、当時のことを所々は覚えているようです。

 

アグナルと再会したイドゥナは、彼の記憶から自分が消えていること、二人の間に授かった子供が魔法をもって生まれたことなどから、自分たちの身に起きていることの背景に、あの森での出来事が関係しているのではないかと思うようになったのではないでしょうか。

そしてエルサが誤ってアナを傷つけてしまったあの晩、奇しくもアグナルと同じように、娘のアナが姉との大切な思い出を書き換えられ、魔法の存在を記憶から消されてしいました。

自分のパートナーと娘の一人(アナ)が、愛する人の真の姿を知らずに生きていくことになり、自らと娘の一人(エルサ)は、愛する人から真の姿を隠して生きていかなくてはならなくなったのです。

エルサの力は日毎強くなり、我が子にはいつ明けるとも知れぬ孤独な日々が待っている。

そうなった時、イドゥナは真実をアグナルに打ち明け、二人でこの運命を打開するため、全ての真相を探る決心をしたのではないでしょうか。

それが、エルサが見た、アグナルに対するイドゥナの告白の記憶です。

 

やがて両親はアートハランが魔法の源であること、その場所がダーク・シーの先にあることを突き止めます。

(もちろんイドゥナが単独で調べていた情報をアグナルに伝えた可能性もあります)

そして道中「All Is Found」の歌詞にあるように「溺れて」しまいますが、6年後、運命に導かれてやってきた自分たちの二人の娘によって、旅の真相と最期の瞬間を「見つけて」もらうのです。

個人的に「All Is Found」に「drown(溺れる)」という単語が出てくるのは、この曲が姉妹だけでなく、アグナルとイドゥナのことも歌ったものだからだと感じています。

 

祖父から始まり、父と母が起こした真実を知るためのアートハランへの旅を、その娘たちが引き継ぎ、「答え」を見つけ辿り着いたのですから、まさにこれは北欧神話、そして北欧文学のサガ(saga)と言えるでしょう。

姉妹が両親の船で見つけた謎の文章(THE LEGEMD OF AHTOHALLAN)も「アートハランのサガ」と言えそうです。

王のサガ、アレンデールのサガ、ノーサルドラのサガ、姉妹のサガ、アートハランのサガ、そして雪の女王のサガ。

「FROZEN」を2作でひとつの作品と位置づけ、また「神話」と「おとぎばなし」の2軸を融合して進めた本作は、意図してかはわかりませんが、内容的にも、構造的にも、最終的に歴代のノルウェー王の伝記、アイスランドの植民を物語る「saga」そのものの形態をとることになりました。

「FROZEN」は壮大でありながら「saga」の形式に綺麗に収まっただけでなく、その内容も、スカンディナヴィアの地に古く、そして新しく誕生した伝承のようです。

 

 

さて、ここからは余談です。

 

イドゥナは不思議な文字が書かれた用紙に「アートハランは魔法の源」と書き留めていますが、アナはこれ読んで、エルサの「力の源」ではなく「エルサの源」と表現します。

アナは本能的に、魔法がエルサそのものであり、エルサがそこからやってきたことを理解しているのかもしれません。

ートハランに一人で向かうと言うエルサに「エルサが溺れたら誰が助けるのか」と主張するアナですが、オラフと共にエルサに安全な場所へと押し出されてしまいます。

これは魔法の森から安全な場所へと運び出されたアグナルを思い起こさせますが、その流れに抗い、同じように激しく頭を打ちつけても自力で立ち直り、更にアートハランの深淵で「溺れる」エルサを救い出すのですから、アナは簡単に父親を超えてしまいましたね。笑

〈補足〉

アナの「エルサの源」発言について以下の情報をもらいました。

イドゥナの文字で「Elsa’s source?」と書き込まれているそうです。

 

 

アンデルセンの原作では、悪魔の鏡の破片が天から降り注ぎ、それがカイという少年の眼と心臓に当たって、彼の性格を変えてしまいます。

映画の冒頭でアレンデールに降り注ぐ4エレメントの氷は、この鏡の破片をもチーフにしているのかもしれません。

今回の作中、何かが「刺さる」のは、オラフとアナです。

特にオラフはアレンデールの「子供たち」から降り注いだ氷を、ノーサルドラの「子供たち」から自分の手(木の枝)を、それぞれ顔や頭に刺されています。

悪魔の鏡の破片が刺さるということは、心に「疑い」が芽生え、物事や相手のことを信じることが難しくなるということです。

これは決して悪いことだけではなく、心の成長、つまり「子供」から「大人」への「変貌」に欠かせない過程です。

オラフは前作から成長し、たくさんの「疑い」を世の中に抱くようになったからこそ、今作で信じきれないことや対処しきれないことへの「怖さ」を口にしています。

そのためアナにしきりに「変わらないもの」について、つまり「なにを信じたらいいのか」について聞くのです。

オラフにはアナが、とても頼もしく見えているのかもしれません。

アナのような大人になって、変わらないものを見つけ、それを信じられるようになれば、生きることは怖くなくなるのだと思っています。

一方アナは、動き出した氷の船の進路を変え川へと飛び出した際、木に頭をぶつけて髪に小枝が刺さります。

そしてそれを自ら引き抜きながら、初めての怒りの感情に戸惑うオラフに対し「オラフにはものすごく怒る権利がある」と言うのです。

これは「自分の感情は自分のものとして、ありのままに感じていいし、隠さなくていい」ということをオラフに教える言葉であり、エルサが苦しんできた「Don't feel,conceal.(感じてはいけない、隠さなくてはいけない)」とは真逆の教えです。

これは今作の大切なメッセージのひとつとして「Reindeer(s) Are Better Than People (Cont.) 邦題:トナカイのほうがずっといい 恋愛編」の中で、スヴェンからクリストフに対しても語りかけられます。

 

アナはオラフにとっても、私たちにとっても、大人としての良い手本なのかもしれません。

エルサが両親の旅の目的を知り、その死の責任が自分にあると自らを責めた時は「旅に出ると決めたのは母と父であり、エルサには関係がない」と、課題の切り分けをきちんとしてくれますし、自分の希望を伝える際も「エルサはエルサの進みたいように進めばよく、それを止める気はない。ただ自分はそのサポートをしたい」と極めてアサーティブな態度をとってくれます。

前作では姉妹共に愛着に不安定な部分があり、だからこそ多くの人の共感を得ましたが、今作の姉妹は私たち観客の指針となるような、安定した愛情と勇気を見せてくれました。

アナと雪の女王」は、2作で1つの物語となったことで、より深く、力強い作品になったと思います。

アナと雪の女王2は「Some Things Never Change(邦題:ずっとかわらないもの)」でわかる

空前の大ヒットを記録したディズニーアニメーション映画「アナと雪の女王

前作の公開から6年の時を経て、先日ついに待望の2作目が公開されました。

前作よりもよりダークな内容に、正直公開前は興行的に振るわないのではないかと勝手な不安を抱いていましたが、そんな心配は無用だったようで、初日から驚異的な動員人数を記録しています。

 

前作に引き続き、今作も魅力的な楽曲がたくさんあります。

その中でも、本作の内容をぎゅっと濃縮したような楽曲「Some Things Never Change」を今回の記事ではご紹介したいと思います。

 

物語の序盤で登場するこの曲は、エルサ、アナ、オラフ、クリストフ、そしてスヴェンの5人が共に歌う、楽しくも切ないナンバーです。

「切ない」と書いたのは、この曲が単に楽しい時間を歌っているだけでなく、時間の経過と共に変わっていくもの、変わらないもの、幸せな今この瞬間は決して永遠には留めておくことはできないのだという事実を歌っているからです。

 

「成長」と「時間」そしてそれにともなう「変化」は、今作の大きなテーマとなっています。

登場人物たちは観客の我々と同様に年を取り、外面も内面も少しずつ大人になっています。

季節は流れ、アレンデールは美しい秋。

オラフは無邪気なままですが、字を覚え本を読むようになり、たくさんのことを思案します。

少し大人びたアナに、結婚を考えるようになったクリストフ、日々の小さな幸せを大切に過ごすエルサ。

街にはこの3年で新たに移り住んだ人々と、新しく建設中の建物が溢れています。

 

季節は移り変わる

みんな おとなになる

 

過ぎていく時間の中で、人々がそれぞれの人生を刻みながら暮らすその風景は、見る人に今この瞬間の美しさと大切さを感じさせることでしょう。

 

原詞・翻訳・吹替歌詞は、こちらのブログが素晴らしいので是非ご覧下さい。

ikyosuke.hatenablog.com

歌詞と映像で「その後の物語」がわかるダイジェストのような一曲「Some Things Never Change(邦題:ずっとかわらないもの)」

この曲には1作目に登場した様々なシーンと対比された描写がいくつも登場します。

前作から変化したものごとをひとつずつ丁寧に描くことで、アナとエルサの世界でも我々の世界と同じように時が流れ、人々の暮らしや心情が少しずつ移ろっていること感じさせます。

なんともいえない愛おしさと切なさ、そして緊張感が魅力的な一曲です。

また時間の経過による変化だけではなく、物語の今後を示唆する歌詞や場面がいくつか登場します。

実はダムの崩壊や、第五精霊についてまで触れられているため、この一曲だけで「映画のダイジェスト」のようになっています。

 

それでは映画に登場する順番に、各場面ごとの私なりの解釈をご紹介します。

これから2回目、3回目をご覧になる方は、是非劇場で確かめながら観ていただけると、映画がより楽しくなるのではなかな、と思っています。

 

①パーマフロスト(解けない体)を満喫するオラフ

カボチャ畑にピクニックシートを敷き、秋の日差しを満喫しているオラフ。

そこへ黄色いドレスを着て少し大人びたアナがやって来て、時の移ろいについて話し出します。

変わってしまうことが怖くないかと話すオラフに、アナが「変わらないものもある」と語りかけ、歌はここから始まります。

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オラフが寝そべっているチェック柄のピクニックシートは、1作目に登場する「In Summer(あこがれの夏)」で夏の暑さを夢見るオラフの空想に登場するものです。

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この時オラフが「日差しの下の雪だるま」について歌うとき、彼の足元には「水たまり」が登場し、青空の下でアナとクリストフがサンドイッチを手にする中、スヴェンだけがパイを食べています。

これは「pie in the sky(絵に描いた餅)」を意味しており、つまりそれが絵空事であること、太陽の下の雪だるまは、実際にはとけて「水たまり」になってしまうという描写です。

しかし本作ではエルサの魔法で解けない体を手に入れたオラフは、水たまりになることを怖れずに日光浴ができるようになりました。

そして体の変化と共に、本を読み思考するようになった、心の成長も見てとれます。

 

②新築工事中の住宅

カボチャ畑を出て街へ繰り出したアナとオラフ。

まず最初に登場するのは、新たに建設中の住宅の枠組みです。 

この3年でアレンデールの人口が増え、それに伴い住宅が続々と建ち始めているのがわかります。

 

③キャンバスと切り倒される木

続いて紅葉した秋の木をキャンバスに描いている男性のもとへ二人はやって来ますが、その木が他の男性に切り倒され口論が始まってしまったため、そそくさとその場を離れます。

二人が立ち去ったあとには、何もなくなってしまった空間と、つい先程までそこに立っていた木のある風景がキャンバスの中に残されています。

これはまさに「時の移ろいによって消えてしまうもの/その瞬間を留めておくこと」のふたつを同じ場面に描いた素晴らしく巧みなシーンです。

毎度のことですが、このような芸の細かさが作品をより奥深いものにしていて素敵です。

 

④古い石垣と新たに敷かれたトロッコのレール

ここは吹き替え歌詞では全く反映されていない部分なので惜しい気がする、今後の展開を示唆した重要なシーンです。

Like an old stone wall, that will never fall
まるで古い石壁が決して崩れ落ちないように
私たちの友情も

Some things are always true
常に正しいことがある
永遠なの

古い石壁は壊れないとアナは歌っていますが、このシーンの石壁は新たに敷かれたトロッコのレールによって寸断され、崩れ落ちています。

この石壁が後に登場するアレンデールダムの示唆であることに気づいた方は多いと思いますが、レールが私たちの方へ向かって延びていること、つまり文明がここから繋がり発展していくことを感じさせる作りがいいですよね。

そして暴走したトロッコの先回りをして方向を変え、オラフを抱き締めるアナは、後にエルサが敷いた氷の道に氷の船で流されるのに抗い、洞窟へ行き着く一連の流れと対応しています。

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またアナが「行き過ぎる」オラフを救うのは、アートハランの深淵で「行き過ぎて溺れる」エルサを救うことを示唆しており、正直かなり本筋に関わるの部分なので、この時点で見せてしまっていいの?大サービスだね!と感じるシーンです。笑

 

オーケンのサロンとスヴェンの買い物

前作では街から離れた森の山小屋で商売をしていたオーケンですが、今回は街中でサロンのような商売をしています。

オーケンについては明言されていませんが、前作から男性のパートナーがいるような様子が描かれていました。

性的マイノリティと思われるオーケンが、エルサの戴冠式に参加せず街から離れた山小屋で暮らしているのが気になっていましたが、今回は街に出てビューティーサロンのようなお店を出しているようです。

これはオーケン自身や、性別にかかわらず全ての人がこのようなサロンを楽しむことをアレンデールの人々が受け入れるようになった素敵な場面だと思います。

また「男らしさ」にとらわれていたクリストフが、スヴェンに後押しされ素直にこのようなお店を、しかも閉鎖的な空間ではなくオープンな空間で利用できるようになったことは、オーケンもクリストフも街の人も、前作よりさらに自由なマインドを手にしたという成長の証ではないでしょうか。

クリストフは前作の「Fixer Upper(愛さえあれば)」でトロールたちに「足の形」と「男らしくない髪の色」について言及されていましたが、今作では人前で裸足になり、帽子も被っていません。

サロンでちらりと自分の足を見る姿は愛らしいですね。

そして前作ではオーケンのお店でニンジンさえろくに買えずにごねていたクリストフとスヴェンですが、今回はなんとスヴェンがお代を出してスカーフを購入しています。

これはとても愉快なシーンですが、彼らが生活の困窮から抜け出したというリアルな描写でもありますね。

物語の最後、アグナルとイドゥナの銅像の除幕式では、スヴェンの勧めでオラフやクリストフも「おめかし」をしていますが、二人がそれを窮屈がるのに対しスヴェンだけは最後まで蝶ネクタイをしたままでいるので、どうやらスヴェンはお洒落が好きなトナカイのようです。

余談ですが、前作に登場するアイスハーベスターたちのモデルはサーミと思われ、彼らがトナカイでなくばん馬を使っていること、氷の運搬を生業にしていることから、ある程度の定住生活を送っていると考えられます。

これは運搬労働(採掘した銀などを街に運ぶ等)を担い、その物資や労働自体をノルウェー(アレンデール)に納税(「ラップ税」と呼ばれます)することで、彼らがそこに暮らすことを「許される」という史実に基づいた描写であると思われますが、今作でクリストフが運搬労働に従事していないのは、エルサの魔法で氷の切り出しが不要になりアイスハーベスターたちが職を失ったというより、エルサが特定の人々に課せられていたそのような不当な税や労働を廃止したという描写であるでしょう。

 

⑥開かれた門と繋がった城と街

バルコニーから街を見下ろし、そこにある日常の大切さと幸せを歌うエルサ。

13年間閉ざされていた門は今は開け放たれ、橋の上を人々が往来しています。

そしてずっと外に出られない生活を送っていたエルサが、自ら「お城を出て楽しもう」と歌い、人々の輪の中に飛び出せるようになりました。

とても感動的な場面ですが、エルサだけメロディーが異なり、アナやオラフ、クリストフやスヴェンとは離れた場所にいて、今後の展開に一抹の不安を抱かせる絶妙なシーンです。

 

⑦漁師の手伝いと海に還る魚

港で魚の水揚げを手伝うオラフ。しかしせっかく渡された魚を海へとかえしてしまいます。

とてもオラフらしく、笑いを誘うかわいらしい場面ですが、劇中オラフが「自然の循環」について触れることを考えると、ただのギャグシーン以上の意味があるのでしょう。

我々の元に届く水は、少なくとも4人の人間または動物の中を通ってくる、というオラフが説明するように、自然は循環しながら機能しています。

魚も水揚げされ我々の口に入り、やがては排出され養分となって自然界へと戻るでしょう。

今作は「自然環境」について強く意識されて作られています。

 

⑧全ての人が参加し協力し合う収穫祭

オラフとスヴェンが街の人と共にテーブルを運び、前作では戴冠式に参加していなかったクリストフとオーケンもテーブルセットを手伝います。

エルサがやって来て人々のコーラスが始まり、アレンデールの旗を掲げ、喜びを共有します。

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ドローン撮影のようにカメラが上空へと昇り、3年前から変化した人々や増築された街並みが映し出されます。

大氷解の後、アレンデールの門は開かれ、様々な土地から人々がやって来ました。

その結果急速に人口密度が上がり、新たな文化が流入しました。

しかしそれはアレンデールをより豊かな国にし、そこに集う人々は参加と助け合いの精神で、この場所を「心の祖国」として愛しているのがわかります。

 

⑨留めておくことはできない、大切なこの瞬間

収穫祭の準備が整い、お祝いと交流を楽しむ姉妹と街の人々。

お城の中でではなく、あくまでも人々と同じ目線での交流を大事にする姉妹が、国民にとても愛されていることがわかります。

これはずっと姉妹が人々と隔離されていたからこそ、人との関わりが人生においていかに大切であるかを体感として知っているからかもしれません。

 

夜が更けていく街の一角を定点カメラが映し出し、荷物を運ぶアナ、行き交う街の人、寄り添い歩く姉妹の残像が、現れては消えていきます。

楽しい時は過ぎ、それぞれの人生が交差しては進んでいきます。

 

時はいつも

駆け足で

過ぎてゆくけど

 

何気ない、しかしかけがえのない日常の瞬間瞬間が、留めておけないからこそ、人生をいかに彩る美しいものであるか、大切なものであるかを、圧倒的なセンスで表現した素晴らしい場面だと思います。

実はこのシーンが本作で最も心揺さぶられ、切なさに胸がぎゅっと締めつけられる、個人的に宝物のように思っている場面です。

クリストフが魔法の森でアナとダムを見つけ、そこでプロポーズを試みる際に「人はいずれみんな死ぬ」と言うように、本作は時の流れと抗えない変化を端々に感じさせる作りになっています。

アナと雪の女王」の世界では、アナやエルサも我々と同じように年を取り、やがては死ぬのです。

ましてやこの物語は1840年代を舞台にしていますから、アナとエルサの物語は「かつてあった、二人の人生の物語」なのです。

終わりがあるからこそ、命の一つ一つがいかに輝いているのか。

私はこの作品を、個人的に最も美しいディズニー作品のひとつであると感じています。

 

⑩橋を渡る裸足のアナ

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収穫祭が終わり、街からお城へと帰る5人。

この時一行はエルサではなく、アナが中心、そして先頭となって歌っています。

私たちのいる画面手前がアレンデール城、画面奥がアレンデールの自然という構図です。

画面奥全体に岩肌「大地」、右奥に流れ落ちる滝「水」、飾られた旗を揺らす「風」、外灯に燈される「火」、そして画面奥から手前へ架かる「橋」と、5つのエレメントが一画面に収まるようになっているのですが、この時なぜかアナが途中で靴を脱いで裸足になります。

これは後にエルサがダーク・シーを渡る際、靴を脱ぎ裸足となってアートハラン(エルサにとっての「ホーム」)へと向かう場面に対応しています。

つまり「第五精霊」であるということが最初に示されているのは、エルサではなく「アナ」なのです。

第五精霊は「橋」であり、エルサはアナに「エルサが第五精霊だったのね」と聞かれたとき、それにイエスと返すのではなく「橋のたもとはふたつあり、イドゥナの娘は二人である」と回答します。

そして姉妹の最後のツーショットは、4エレメントの石柱の中心、第5エレメントの位置で二人が抱き合って終わるのです。

 「Some Things Never Change」は靴を脱いだアナが「橋」を渡り、アレンデール城(アナにとっての「ホーム」であり、「自然」に対して「人間」のメタファー。そして画面手前にいる私たち観客の側)に立つ、というシーンで終わります。

実は「FROZEN2」という物語の核心や結末まで示されている、まさにダイジェストのような一曲です。

これを冒頭に持ってくるあたり、制作陣は本当にこの姉妹の物語を「おはなし」として完結させようとしているのだと感じます。

(もちろん続編が出ないということではありませんよ!)

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FROZENⅡのタイトルロゴは、前作と異なり、全てが氷ではありません。

上部がエルサを表現する「氷」、下部がアナが表現する「石」、そしてシンメトリーの穏やかな曲線全体は「橋」のようです。

 

「FROZEN」とはエルサとアナという、二人の「架け橋」の物語なのです。

 

 

すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ【感想】

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映画「すみっコぐらし とびだす絵本とひみつのコ」を観てきました。

号泣者続出、予想以上ではなく予想外の展開で大人がざわつく映画だと公開以来話題ですね。

一部には2019年で一番面白いとか、ジョーカーを超えるとかの声があり、気になったので行ってきたのですが・・・うん、流石にそれは言い過ぎかなとは思いました。笑

おそらく普段映画を頻繁には観られない方が、お子さんを連れて行って思わず自分がハマってしまった、話題になっているので久しぶりに映画を観たら泣いてしまった、という感じなのかなと思います。

だからといってつまらなかったわけではありませんし、キャラクターたちも可愛くて癒やされました。

そしてなにより、可愛い絵柄からは想像できない物語のシビアな設定が大人たちにウケているのだと思います。

それ故に一体どの客層に向けての脚本なのかわかりにくく、映画が伝えたいメッセージも汲み取りにくいものだったため、ちょっともやもやしています。

しかしきっとこのもやもやした感じが、単なる「おとぎばなし」ではないというのが、ヒットの要因なのかもしれません。

折角ですので、ちょっとここのブログらしい切り口で感想を書いてみようと思います。笑

 

映画「すみっコぐらし」は、徹底した「反セカイ系」映画でありながら、小さな「セカイ系」要素を内包している不安定さが魅力の作品

 

セカイ系の定義は曖昧ですが、ここではざっくり「主人公の意思が世界の在り方に反映してしまう作品」をセカイ系として書いてみます。

この点において、映画すみっコぐらしは、徹底した「反セカイ系」の設定です。

 

私がここで「セカイ」を出すのは、この映画が様々な「世界」を扱った作品だからです。

私がこの映画で面白いと思ったのは、物語に登場する各「セカイ」に設けられているルールが異なるところです。

「セカイ」に着目して観た場合、以下のようになると私は思っています。

 

映画「すみっコぐらし」では・・・

 

おとぎばなしの流れは基本的に書き換えられないが

絵本という物理的構造を利用して各おとぎばなしの「世界」同士を繋いだり、融合させることは可能

しかし「所属」という世界(現実世界/絵本の世界)の隔離は徹底されている(=反セカイ系

しかし絵本の「世界」を書き換えるという「セカイ系的な行為」により、現実とフィクションの両世界に影響を与える

 

というものです。笑

 

これ、実際に映画をご覧になっていない方にはわかりにくいと思うのですが、ご覧になったはお分かりいただけるかと思います。

 

例えば「桃太郎」なら、おじいさんは山へ行かなくてはならないし、おばあさんは川で桃を拾わなくてはなりません。

この「おとぎばなしの基本的な流れ」は、どうやら変えられないようです。

しかし「絵本という物理的構造」を利用して、各おとぎばなしを繋いだり融合することは可能です。

例えば裏のページに書かれている別のおとぎばなしの中に、飛び出す絵本のギミックを利用したり、物理的に紙のページに穴を開けることで移動することは可能なわけです。

しかし、物語の設定として、キャラクターたちにはそれぞれ「所属」してる世界があり、「所属」していない世界には「存在」できない、というシビアなルールがあります。

ここがこの物語の一番「残酷」な部分です。

つまり、主人公たちの意思は決して「セカイの在り方」を変えることはなく、彼らは自らのセカイに関与できないのです。

この映画の最も評価できる点は、ヴィランが存在せず登場キャラクターの全てが優しい創作物であっても、設定によって「残酷」を生み出すことができる、という点と、「現実的解決方法」が結果として「セカイを書き換える」とういう「非現実的行為」であるが、矛盾せず存在しているという点です。笑

 

しかし、この映画が観客に伝えたかったメッセージが、私にはとても汲み取りにくく感じました。

一番わかりやすいハッピーエンドは、ひよこがすみっコたちの世界にやってきて、共に仲良く暮らすことでしょう。

しかしそれが叶わない。そうなったとき、すみっコたちは実際にできる努力として「絵本を書き足す」というセカイ創造を行います。

この終わり方は「力が及ばないルールはあるが、現実的に考え得る方法で、可能範囲で補おう」と取れなくはありませんが、それが子供たちや観客に伝えたかったメッセージなのでしょうか。

もちろんそれに意味がないとはいいませんし、たしかにだいぶ現実的で実践的なメッセージです。笑

しかし、視点を変えてみると、フィクションに影響された現実世界が、フィクションを更新することでフィクション自体を救い、またその救われたフィクションが現実を慰める、という風にも取れます。

ただもしこれを主なメッセージとしているならば、本当にどの層向けの映画なのかわかりません。笑

どちらのメッセージも意義がないことはないですが、伝わる層、あるいは伝えるべき層のいる方角に向かって効果的に公開されているのか謎ではあります。

オチに入る前に「みにくいアヒルの子」的展開をメタに批判しているのも攻めていますが、そこで終わらず更に追い打ちがかかるあたり、大人向けなのでしょうか・・・

子供たちがどのように受け止めているのかが大変気になる作品でした。

 

作品からイデオロギーを感じないので、おそらく子供向けの映画でシナリオの巧みさを見せたかっただけだとは思いますが、だとするとかなり即出のものなので(そのため「実質○○」と例えられる)「オタクに好まれるシナリオをゆるキャラでやった」という、オタクが作ったオタク向けの映画なのだと感じました。

子供たちも多く観るであろう作品で、子供たちのためというよりはオタクの内輪ノリに走ってしまった感が否めないので、そのあたりの無意識さ、無責任さは若干感じます。

 

近年はこの「オタク文化に親和性が高い作品」が、サブカルではなく一般(というか非オタ)ウケするようになってきたように感じますが、それは一般(非オタ)の人がオタク化した、オタクの感性を持つようになった、というわけではなく、ただどちらも「自分たちが何を見ているのか」が意識されていないのだと思います。

 

最後に辛辣になりましたが、キャラクターたちはとても可愛く、個性的で、癒やされますので、別にがっかりするような映画ではありませんでした。笑

 

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マレフィセント2が紛うことなき戦争映画だった件

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映画「マレフィセント2」を観てきました。
いやぁ、素晴らしかった。
今のところ今年観た中で(とはいっても月に1本くらいしか観ませんけれど)個人的に一番心に刺さった作品です。
痛烈な現代社会への批判、そして猛烈なディズニーの自己反省の映画でした。
まさに2019年に相応しい作品ではないかと思います。
 

マレフィセント2は「戦争映画」

話を盛っているというわけではなく、マレフィセント2は正真正銘の「戦争映画」でした。
ご覧になった方はお分かりだと思いますが、ほぼほぼ策略・虐殺・戦争のシーンです。
ディズニーがここまで描くのか!というくらい、容赦なく人も妖精も死にますし、「眠れる森の美女」というフェアリー・テイルをメタ的に批判する、とても攻めた内容でした。
 
そんなシリアスな内容の中でも、マレ様が最初から最後までとことん可愛い。
その可愛さが、寧ろダークな物語の中で胸を締め付けてきます。
 
マレ様、本当にいい妖精ですよね。
正直もうディズニーはマレフィセントを「ヴィラン」扱い全くしていません。
映画を観たら、きっとみなさんマレフィセントのことが大好きになるのではないでしょうか。
本当に怖いのは人間、そして人間の「政治」であると教えてくれる映画です。
 

萌えポイントいっぱいのマレ様

オーロラの婚約に際し、人間(フィリップ王子のファミリー)から食事に誘われ、戸惑いつつも思いがけず嬉しいマレ様。
アンジーの表情が見事です。
王子の母親であるイングリスが会いたがっていると聞いて、ちょっと、いや、かなり内心嬉しいマレ様は、オーロラの足を引っ張らないように一生懸命「ごあいさつ」の練習をしています。
それなのに、牙を見せてはいけないと言われたり、しまいには大好きなオーロラに角を隠すベールまで渡される始末。
オーロラ、なんてことするんだーーーーーーーー!!!!
と心の中で叫んだ人は大勢いるのではないでしょうか。
(私はもうマレ様が健気にあいさつの練習をしている時点で泣いてしまいました。笑)
 
しかしこれは今までの「フェアリー・テイル」のように甘くなく、またとてもフェアな描写です。
糸車の呪いがまだ残っていたのは、マレ様の人間への不信感が拭い切れていなかったということだと思いますが、同じく人間であるオーロラにも、マレ様の容姿が怖がられるのではないか、気に入らないことがあれば悪いことをするのではないか、という差別的な意識や不信感があるということが効果的に描かれています。
また作中悪事を働くのは人間(イングリス)ですが、イングリスに協力している者の中には妖精もおり、人間が人間を裏切ることもあれば、妖精が妖精を裏切ることもあるという、とことんリアリティを盛り込んだ作りになっています。
 
しかし、ヴェールを渡されて物凄く傷ついたはずなのに、グッと我慢するマレ様には胸が痛みます。
嫌われているはずの人間から食事誘われて戸惑ったり、オーロラの足を引っ張らないよう挨拶の練習をしたり、理不尽なのにヴェールで角を隠さなければならないと感じたり、マレ様が本当はとても自己肯定感が低いことがよく描かれています。
 
今回は「デマと政治」が主題のひとつでもありますが、ある意味フェアリー・テイルのヴィランズは、物語で伝えたいことを効果的に伝えるため、つまり民衆を心理的に操る「政治」のために「意図的に悪役にされている」ため『自分は悪いのだ』と思い込まされていて自己肯定感が低いのかもしれません。
このマレ様の「自己肯定感の低さを乗り越える」という姿は、最後の最後の方で回収されますので、「デマ」「政治」「差別」「戦争」に並んで、マレフィセント2での大事なポイントなのではないかと思っています。
正直私はこの「ヴィランの自己肯定」の部分に今回一番感動しました。
 
その他にも、初めて同種の仲間(ダーク・フェアリー)がいることを知ったマレ様が、ダーク・フェアリーの子供たちが空を飛ぶ練習をしている姿を見て思わず笑顔になったり、彼らが危機に瀕していることを知って「私が守る」と即答するなど、彼女がとても優しく愛に満ちていることがわかるシーンがたくさんあります。
キノコの妖精を襲われて怒るマレ様、妖精たちの墓地を荒らされて怒るマレ様・・・マレ様はツンツンキャラですが、行動するときはいつも自分のためでなく他者のためです。
 
その点を最もよく理解して利用しているのは、意外にもイングリスです。
イングリスは近年珍しいくらいに、単に「戦争が好き」「殺人が好き」というサイコパス気質なヴィランです。
サイコパスはよく「人の気持ちがわからない」と思われがちですが、寧ろその逆であり「人の心理がよくわかる」のでそれを利用するのに長けています。
ただそれに「共感」をしないだけです。
イングリスの陰謀を支えるパイプオルガンの虐殺少女、ゲルダさんもサイコパスですが、イングリスが勝負事(作戦や戦争)に勝つことに快楽を感じるタイプなのに対し、ゲルダさんは「殺人(殺妖精)」行為そのものに性的快感を覚えるタイプのようです。
どちらも間違いなくサディスティックですが、ちょっと趣向が違います。
この二人のエクスタシーはそれぞれ美的に描かれていて、視覚芸術的な効果がとても大きい本作の中でも、特に印象に残る場面です。
イングリスの方は、戦地と化した城の庭という「場」を支配する光景に浸かることのできる塔の上で、ゲルダさんの方は、虐殺現場となった聖堂の中で自ら荘厳な音色を奏でながら、それぞれ悦に浸っています。
各々の場面で兵器の赤い煙が花開く様がとてもエロティックです。
ゲルダさんは放っておいても(城仕えにならなくても)虐待や殺しをやっているタイプなので、やはりそれを見つけてくるイングリスの勘は流石だと思います。
ゲルダさんとしてもたくさん殺せる機会なので、作戦はイングリスに任せた方が互いに利があると思っているのでしょう。
なかなかディズニーにはいないタイプの悪役二人なので、とても魅力的でした。
 

王子がだいぶ良いことを言う

前作ではモブ状態だったフィリップ王子ですが、今回はとても大きな役割をします。
妖精たちを「民」と呼んで人格ある個として尊重し、イングリスの流したデマを信じ勝手な先入観にとらわれている自国の兵士に対して
 
「知りもしないで妖精たちの悪口を言うな」
 
とたしなめるその言葉は、フェイクニュースに踊らされ、正義を盾に攻撃の実行へのハードルを下げている現代の我々を強く叱っています。
また、イングリスに攻撃をやめさせようとした際
「これは戦争なの」と表現した母親に対し
 
「戦争ではなく虐殺だ」
 
と即座に言い返したのには唸りました。
この王子なら未来を託しても大丈夫そうです。
 
その他、気合いを入れてプロポーズにやって来ても、オーロラの女王としての仕事の都合を尊重したり、アルステッド国でのしきたりに息苦しさを感じるオーロラに対して「自分は森の中で出会った少女に恋をしたのだから変わらないでいほしい」と励ますなど、思いやりとモラルのある青年として、若干マンスプレイニング気味なジョン国王との差が付けられられて描かれています。(若干と言ったのは、ジョン国王のマンスプレイニング発言「王妃は私の後ろに」がとってつけた感が否めないという意味で、マンスプレイニングの程度の話ではありません)
 

決して「野蛮」ではない妖精たち

イングリスのデマ、つまり吹聴された「フェアリー・テイル」 により、尾ひれはひれついて凶暴で野蛮なイメージを持たれている妖精たちですが、プロポーズ作戦に協力するなどフィリップ王子を好いているようですし、人間の国からの結婚式の招待にも、疑うことなく純粋に喜んでいます。
招かれた聖堂できちんと新婦側の席に座って待っている様子は、新郎側の空席と対比されてとても悲しいシーンです。
食事の席でマレ様が鉄のカトラリーを下げられた時も「遠慮なさらず手で召し上がって」というイングリスの言葉に、ジョン国王もフィリップ王子も何も言いませんでした。
鉄ではないカトラリーを用意するだとか、自分たちも手で食べるだとか、そういう配慮はないのです。
むしろ「彼女にはそうしてあげた方がいいのだろう」くらいに思っていて、無意識に卑下しています。
しかし、妖精たちは決してそのように粗暴な生き物ではありません。
実際には秩序的で文化的な暮らしをしているにも関わらず「イメージ」で悪く思われているのです。
 

アレルギーとして描かれる「毛嫌い」

イングリスは妖精の「におい」でくしゃみをします。
妖精たちを捕らえて監禁している地下室や妖精の花、オーロラが髪に飾っている妖精の国の花の「におい」に過敏です。
もう一人「におい」に反応するキャラクターが、ダーク・フェアリーのボーラです。
自分たちダーク・フェアリーが生き残るには人間と戦うしかないと主張する彼は、マレ様に顔を近づけて「人間くさい」と漏らします。
 この場合の「におい」とは、実際のそれとは違うものでしょう。
「妖精だ」「人間だ」というだけで拒絶反応を起こしているという「毛嫌い」の描写です。
 
この「相手のにおいが気に入らない」二人は、好戦的なキャラクターです。
ボーラは平和を訴えるコナルの意見を聞いていましたが、彼が人間の攻撃に倒れてからは 「平和を求めたコナルが殺されたのだから、もはや戦うしかない」として、ダーク・フェアリーたちを戦争に駆り立てます。
ボーラのこの演説は説得力がありますが、「国を守るには弱腰ではいけない」「政治のコツは民衆の不安を煽ることである」というイングリスの主張に通じるものがあります。
彼にとってコナルの訴える「平和」とは、ちょうどイングリスが言うところの、オーロラの抱いている理想のように「頭に花を飾って森を駆け回るような甘い考え」であるように見えているのです。
 

「教える」ことの大切さ

イングリスの失敗は、ジョン国王の教育を見くびっていたことでしょう。
彼女はジョン国王の平和を重んじる理念を「おとぎばなしのようなもの」として甘く見ていました。
しかし結果的に、ジョン国王の教えにより武力行使をしない「強さ」と「正しさ」について考え、信念を持って育ったフィリップ王子の活躍もあって、彼女の策略は失敗に終わります。
 一方マレ様は、オーロラ、ディアヴァル、コナルなど、大切なことを教えてくれる人たちに恵まれました。
彼らがいたことで、マレ様はいろいろな視点に触れ、気づき、考える人生を送ってきたのです。
 
「フェアリー・テイル」を信じていなかったのは、イングリスもマレ様も同じです。
しかしマレ様は、周囲の信頼する人たちが繰り返し説く「おとぎのような愛」について、考え続ける環境で生きることができました。
 「フェアリー・テイル」に絶望し、それを信じる危険を実体験として持っているマレ様が「それでもなお、おとぎ話のような愛と正義の力を信じる」と、覚悟を持って決断するまでの物語が「マレフィセント」なのだと私は思っています。
 

「愛」とはなにか

全ての終わりに、マレ様はオーロラのことを、今までの「醜い子」ではなく「愛しい子」「私の娘」と呼びます。
マレ様は、今までも決して愛を知らなかったのではありません。
またオーロラに「母」と認められたので「娘」と呼ぶことができたのでもありません。
そのような「許し」がなくても、オーロラを「愛している」こと、自分が「母」であり、彼女が自分の「娘」であると、強く理解したからこそ、そう言ったのです。
 
マレ様は、ずっと愛を知っていました。
妖精の森に育まれ大空を飛び回っていたときも、若き日にステファンと恋をしたときも、オーロラを育て成長を見守り続けたときも、彼女の中には「愛」があって、彼女もそれを理解していたはずです。
しかし「ヴィラン」の自分には、「愛」は「あってはならいもの」だと思い込んできました。
それは「フェアリー・テイル」には都合が悪く、求められている「自分の役割」に反しているからです。
しかしそれでもなお「愛」はマレ様の中にあり続けました。
オーロラや妖精たちに対する「愛」が、疑いようがないくらいにはっきりと存在しいるのに、自分はそれに相応しくないと思っていたのです。
そしてその「許し」を請うこともまた「許されない」と思っていたからこそ、マレ様は葛藤し、苦しんだに違いありません。
しかしついに「私は愛をもっている」という「存在や事実」には、「許可」など必要ないのだと、マレ様は気づきました。
フェアリー・テイル(思い込まされた価値観)を、マレ様が乗り越えた瞬間です。
 

イングリスもまたスケープ・ゴート(贖罪の山羊)である

物語の終わりに、イングリスはマレ様の手によって「山羊」にされます。
山羊は悪魔の象徴であると同時に、生け贄の象徴でもありますが、私はこれを見て、イングリスもまた「マレフィセント」という創作物においてのスケープ・ゴートであるという意味が込められているのではないかと思いました。
この描写はもしかすると、ディズニーから全てのヴィランズに捧げる贖罪なのかもしれません。
 
そして物語は、オーロラ姫とフィリップ王子に対し「洗礼式にはまた来るから」と、マレフィセントがウィンクをして、子供のダーク・フェアリーたちと自由に大空を羽ばたいていくシーンで終わります。
映画の冒頭で三妖精が「オーロラはもう『眠れる森の美女』なんかじゃないもの」と、フェアリー・テイルとしての、もっと言えばディズニーの「眠れる森の美女」という創作物に対しての言及をし、この映画が「物語を描く物語」であるとう立場を明確にしてから始まり、「マレフィセントという悪い妖精が洗礼式にやって来て人間に呪いをかける」シーンから始まる物語を、見事に回収しました。
 
次にマレフィセントが洗礼式に現れるときは、人々は彼女を歓迎し、彼女は呪いでなく祝福を贈るでしょう。
吹き込まれた「眠れる森の美女」のフェアリー・テイルは、共に紡いでいくこれからのおとぎばなしとして書き替えられたのです。
 

それでも「フェアリー・テイル」を描くということ

マレフィセント2」の終わり方に、もしかすると物足りなさを感じた方もいらっしゃるかもしれません。

つい先程までいがみ合い、争っていた人間と妖精が和解し、オーロラとフィリップの結婚式に参列するのですから、急に「おとぎばなし」に戻ってしまったと感じるのは当然といえば当然です。

しかし私は、この終わり方が最も巧みで、好ましかったのではないかと感じています。

 

マレフィセント」に限らず、近年のディズニー映画は、自らが世界に浸透させた「フェアリー・テイル」の功罪について自覚的な作品作りをし、アップデートを図り続けてきました。

その姿勢を支持してきた人たちの中には、マレフィセント2の終わり方を見て「ディズニーはおとぎばなしの域を出ないのだ」と残念に感じた方もいらっしゃるかもしれません。

しかし私は、安全策として「結局、おとぎばなし」にしたのではなく、彼らがその必要性を信じて「敢えて、おとぎばなし」にしたのではないかと感じています。

後半までずっとリアリティをもって描けていたのですから、ラストもリアルに、シビアに終わらせることはいくらでもできたはずです。

そしておそらく、私たち観客もまた、近年のディズニー映画にそれを望んでいます。

もちろんオールド・ディズニー的な「勧善懲悪」の物語を望んでいる方もいらっしゃると思いますが、ディズニーにその気がないのは明らかですので、当然今回もアップデートをしてくるだろうと多くの方が予想したはずです。

 

ではなぜ、マレフィセント2は『絵に描いたような平和なハッピーエンド』を敢えて持ってきたのでしょうか。

それは、ディズニーの否定したいのものが、フェアリー・テイルが人々に信じ込ませる「絶対的な善と悪が存在するという物事の単純化」の部分であって、「愛と平和の明確さ」ではないからだと、私は考えています。

 

おそらくディズニーがやりたいのは、単なる「おとぎばなしの否定」ではありません。

彼らは「まるでおとぎばなしのような、明確な愛と平和」を捨てるわけにはいかないのです。

これは、彼らの信念であると私は感じますし、我々人類が覚悟を持って信じ続けなければならないことだと思います。

現代の我々は、きっとイングリスのようになっているのかもしれません。

「人間の政治は複雑」であるから、現実世界は「頭に花を飾り森を駆け回るおとぎばなしのように簡単にはいかない」のだと、そしてそのリアルさや困難さ、複雑さを描くことが時代的に好ましいのだと、そういう流れがあります。
今日の我々はイングリスや過去のマレ様のように「フェアリー・テイルは現実を救ってくれない」と感じているのです。
 
たしかにフェアリー・テイルの勧善懲悪の部分は現実社会とは乖離していますし、この世界は複雑であり、課題に満ちています。
この荒んだ世界の中で、愛と正義を信じ続けることが、いかに「簡単」ではないか、我々は知っています。
しかしそれは、世の中の「複雑さ」を唱えるだけでは、決して解決へは向かわないのです。
 
私は「マレフィセント2」という作品で、オーロラは「新しい政治」を私たちに示したのではないかと感じました。
今までのフェアリー・テイルと違い、マレフィセント2には憎しみや愚かさ、暴力や理不尽な死が描かれています。
戦場と化した城の庭には、人間の屍も、妖精の屍もあるでしょう。
血が流れ、憎しみが漂い、簡単には乗り越えられない不条理が、そこには満ちています。
冷静に考えたら、なにも戦いのあったその場所で、しかもその日の内に、婚礼の儀など挙げなくていいのでは、と思うでしょう。
しかしオーロラは、争い合い、血の流れている「いま、ここで」両国の友好を宣言する必要性において、式を強行しました。
もしもみんなが「冷静」になれば、また「複雑さ」を理由に「平和」へ踏み切る機会を永遠に失うと、オーロラは感じたのだと思います。
 
このシーンに、私はオーロラの「政治手腕」を強く感じました。
イングリスに、若さと治世の短さを理由に政治は不可能だと非難されたオーロラですが、私はとんでもなく政治力があると思っています。
正直に言って、人々の「冷静さ」の危険をかいくぐるこのやり方において、イングリスとオーロラは紙一重です。
イングリスとオーロラはただ一点「フェアリー・テイル」の「勧善懲悪」か「愛と平和」の、どちらを利用するかにおいてのみ違うのです。
 
ディズニーの描く愛と平和が「願えば叶う、夢のような愛と平和」から「実行が最も困難な、しかし、明確な愛と平和」へと次元が変わったのだと、私は思います。
 
その描写として、山羊の姿のイングリスが、結婚式の輪に入っています。
今までのように「退治」されたヴィランは物語の外へ出されることはありません。
悪を排除し、善だけを集めた世界が、現実の平和ではないのです。
 
人間がいて、妖精がいて、困難があり、愛がある。
オーロラとフィリップの結婚式に参加した全ての者が存在しているのが、私たちの世界であり、目指すべき平和の姿なのだと、「マレフィセント2」は示してくれたのだと思います。
 
マレフィセント2」は、「おとぎばなし」の語り出しへフェニックスのように繰り返し循環する構成と、そこに至るまでに描かれた沢山の「山羊」たちに敬意を添えた、美しい作品だと、私は思いました。
 
 
 
 
余談。
結婚式で「私を引き渡して」と言われ「え、嫌よ」と勘違いして即答するマレ様と、ディアヴァルに「メソメソしないの」と言いながら、自分も素直に泣いてしまうマレ様は本当に良い妖精で、可愛いです。
みなさんも是非「マレフィセント」「マレフィセント2」、観てみてくださいね。

FROZEN2予想 アナの黒い服の意味とは

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【注意】この記事はFROZEN2のネタバレ、予想を含みます。

また、予想は個人的なものですのでご理解下さい。

 

 

FROZEN2の公開まで、いよいよ1ヶ月を切りました。

現時点までにリリースまたはリークされている情報により、ストーリーの展開はほぼ全て予想することが可能です。

私も仲良くさせて頂いているwestergaardさんのブログにわかりやすくまとめてありますので、事前に物語の展開を知りたい方は是非お読みになって下さい。

ikyosuke.hatenablog.com

westergaardさんがこの記事に書かれている場面の展開順序と曲の挿入位置について、私も同じに考えています。

しかし現時点までにリリースまたはリークされている情報では、見事なまでに物語の核心部分が避けられているようです。

具体的には

アレンデリアンとノースルドラの戦いの真相

アトハランでエルサが迎える出来事の詳細

については明かされていません。

エンドとしては、アナは戴冠して女王になり、エルサは第五元素「ブリッジ」の使命を全うすることがほぼ確実です。

 

以下は以前私がfusetterに書いたものです。

アース・ジャイアントが人間と敵対する、或いはダムを壊すというのはこちら側(視聴者側)の偏見で、ダムは壊されるのではなく、壊れようとしている。
ダム崩壊の要因は経年劣化の他、アレンデリアンとノースルドラの「信頼」の象徴であるため、それが崩れかけているという意味も持つ。
ジャイアントは崩壊するダムを体をはって堰き止めようとしている。
理由。エレメンツは元から人間と敵対はしておらず、アレンデールに危機が訪れた際もアレンデリアンを避難させ助けようとしている。
マティアスは精霊の生態を知っているため、ジャイアントが怒ってダムを壊したいのであればエルサたちが訪れる前に壊されているはずである。
エレメンツたちは何かに呼ばれ、怯え、助けて欲しいと思っており、エルサも彼らの気持ちがわかる。
Frozen2は
「自然」「精霊(エレメンツ)」「人間」
の3者の話であり、精霊は自然そのものではおそらくない。
エルサがエレメンツをアレンデールに取り戻すと言っているように、エレメンツは自然の営みにも人間の営みにも不可欠な構成物質で、自然界だけのものでも人間界だけのものでもなく、また既にそのどちらにも存在している。

この世界の全てのものは不可分な存在であり、そのことを忘れかけていることが「橋」の不安定さに現れている。

橋やダムは一見「自然」を壊すもののように見える。
しかし私たち人間もまた世界の一部であり、その営みは自然にとって絶対的な悪ではないはずである。
ウサギが土を掘り、キツツキが木に穴をあけ、シカが新芽を食むことは自然の破壊ではなく摂理の一部であり、私たち人間の営みもまたそのように世界の摂理の一部であるはずである。
ダムの崩壊は自然にとっても被害の出る話であり、森を削り、動物たちの暮らしを脅かす。
もちろん長いスパンで見ればいつかは自然治癒しうるかもしれない。
しかし人が手を貸すこともまたできるはずである。
人の手が入ることは必ずしも破壊行為ではなく、また野放図が多様性の姿でもない。
自然は精霊に働きかけ、森の人間を一掃しようとしているのかもしれないが、それは必ずしも精霊たちが望む力の使い方ではないかもしれない。

自然も精霊も人間も、自分たちが不可分な存在であることを忘れ、本来存在しない「敵」をあるように思い込んでいる。
その現れである古い橋(ダム)は崩れ去り、新たな「不可分のブリッジ」が必要となる。
それがエルサだと私は思う。

アナにとって最も難しい決断は、国民を失うことよりもエルサを失うことだと思う。
だから、アナが「次にする正しいこと」は、ダムを壊すことではなく作ること、つまり、エルサを手放すことではないだろうか。

エルサは文字通り新たな「橋」になる。
隔たりでなく交わりとしてのブリッジだ。
エルサがブリッジになることで、自然、精霊、人間の摂理が戻る。
なぜから初めからそうであったからだ。

初めからそうであったことに気づく時、世界は「過去に戻ってやり直す」と同意になるのだと思う。

これを書いた時点では、アナが「The Next Right Thing」を歌う際、涙を浮かべ苦悶の表情をしていることから、次にするべき正しいこと(アトハランにいるエルサから提示されること)が、結果としてエルサを失うことになるために辛いのだと思っていました。

もちろんそれもあるとは思いますが、今はアナのこの時点での「服装」と、直前まで同行していた「オラフの不在」に注目し、個人的にですが仮説を立てています。

 

その仮説を紹介する前に、FROZEN2が「自然」「精霊」「人間」の3者間の話であると私が感じているショットを載せたいと思います。

 

「アクター」としての「自然」

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未だかつてディズニー映画でここまでメインキャラクターの引きの画が多いことがあったでしょうか。

これらの場面は人間がとても小さな存在であり、また我々が自然界の中で生きているのだということを改めて感じさせてくれる美しいショットです。

事実、私たちは自然から様々な恵みを享受し、文明を築いてきました。

同時に多くの自然災害とも直面し、FROZEN2でも水害の様子が描かれると予想されます。

洪水により川が山々を削って運び豊かな土壌が生まれるからこそ、我々人類の文明は大河の周辺に発生しました。

自然からの恵みを享受するということは「リスク」を背負うということでもあります。

FROZEN2では、自然は今までのような単なる「背景」としてではなく、現実に対して確かな影響力を持った「アクター」として登場します。

それを表すのが、今回多く見られる「自然をアクターとして切り取った雄大なショット」であると私は思っています。

 

余談ですが、このドローン撮影のようなショットは、一体誰の目線でしょうか。

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ノックに乗って駆けているエルサとも考えられなくもありませんが、馬上の映像にしては上下運動がありませんから、アレンデールに迫り来る洪水の先頭からの映像かもしれません。

このような視線の取り入れも、自然が重要なアクターの1人であることを示すものなのかもしれません。

 

アナ「黒い服装」の意味

エルサが作った氷のボートで送り出され、洞窟にたどり着いたアナとオラフ。

そこでエルサからの知らせが届きます。

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※画像はこの記事の冒頭で紹介したwestergaardさんの記事より

 

この洞窟シーンの後半が「The Next Right Thing」と思われますが、この時点ではアナのマゼンタ色のマントはなく、またオラフの姿が見えません。

 

アナが黒い服を着るのは、ずばり「喪服」を意味していると私は考えています。

一作目でアナが全身黒い服を身にまとうのは、両親の葬儀の時です。

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ではThe Next Right Thing」のアナは、誰に対して喪に服しているのか・・・

おそらくそれはオラフでしょう。

このシーンの前に「何も変わらないと言ったのに全てが変わってしまうのだろうか」と心細くなったオラフに対し、アナは自分はオラフのそばを離れないと慰め、約束の指切りをしています。

アナが泣いているのは、その約束が果たせなかったからでしょう。

私は、オラフの亡骸にアナがマントをかけたためにThe Next Right Thing」では黒い服のみになっているのだと考えています。

一緒にいると約束した、アナのせめてもの想いかもしれません。

 

ただ、安心してもらいたいのは、エルサが帰還したあとにオラフも帰還しますので、このシーンが最後ではないことです。(言い切ってしまいましたが、違ったらすみません。笑)

 

オラフの成長

痛み、不安、自立、実体化、王への布石・・・

ある意味で、オラフはFROZENという作品の中で、最も成長したキャラクターかもしれません。

一作目では、氷柱に体を貫かれても「刺さっちゃった」と楽観的に笑っていたオラフですが、短編作品の「家族の思い出」では、オオカミに追われて顔に「青あざ」をつくり、物事が上手くいかないことに落ち込み、悲観に暮れています。

彼は肉体的にも精神的にも「痛み」を感じ、経験による想像力の成長で「不安」を抱くようになっているのです。

FROZEN2ではエルサに永遠に解けない体にしてもらっているため雪雲は不要となり、アナが読み書きを教えたため本が読めます。(お気に入りは「哲学」の本だそうです)

彼は自立し、思考する存在へと成長しています。

まるで子供の成長そのものです。

オラフがアナからマントをかけてもらうというのは私の全くの妄想ですが、もしそうなれば彼が将来的に王になるメタファーと取れなくはありません。

私はオラフはエルサとアナの子供のように考えていますし、事実エルサとアナには「親」としての自覚が芽生え「子育て」をしているようにも感じられます。

個人的に、オラフが歌う「When I Am Older」は名曲の予感がしています。

自分が大人になったら、全てが「普通」のこととして受け入れられるのだろう。

今はその自らの全盛期を待とう。

という歌詞です。

オラフは「生きた雪だるま」で人間ではありませんし、姉妹との「血の繋がり」もないかもしれません。

しかし、だからといって王位を継げない理由になるのでしょうか。

もちろんオラフが王になるまで作品を続ける気はないでしょう。

むしろ私はもうFROZENは2作で完結させ、先に進めることはないと思っています。

ある程度、具体的で未来志向のロールモデルとして作品そのものを高く掲げるつもりなのではないかと感じているからです。

今、私たちが抱えている様々な「違い」を、振り返れば「それらが存在しているのが普通だったのだ」と気づく日がやってくるかもしれない。

そういう点においても、オラフの「When I Am Older」はとても示唆に富んだ歌になるでしょう。

 

クリストフの葛藤

クリストフは劇中何度もアナにプロポーズしようと試みます。

これはギャグシーンでもありますが、彼が結婚という「形式」にとらわれている描写でもあると私は思います。

一作目で「魅力的な異性」「ロマンス」「結婚」というディズニー的な「フェアリーテールのセオリー」に憧れていたのは、むしろアナでした。

しかし今作では「結婚」に固執しているのはクリストフです。

クリストフには「男性はこうあるべき」という思い込みがあり、そのペルソナを長い間かぶり続けていたために、本来の自分はそうではないにもかかわらずペルソナと自身の区別がつかなくなり始めている、という設定が一作目の時点から存在しました。

その一面が垣間見えるのが、一作目でアナとオオカミに追われるシーンです。

アナがスヴェンの手綱を取ろうとすると、彼は「スヴェンに命令するな。俺がする」とそれを制止します。

主導権を握りたがるのは、彼が傲慢な性格であるというわけではなく(周知の通り彼はとても優しい)「強くあらねばならない」というプレッシャーによるものです。

「愛さえあれば」でトロールたちが歌うように、実際の彼は強がっていて、いわゆる「男らしさ」の実践に無意識に苦しんでいます。

同じように、彼は「結婚」という「形式」によりアナとの愛を確信しようとしているのかもしれません。

結婚は単なる社会制度であり、愛を測るものではありませんし、パートナーシップには多様な形が存在します。

私は、クリストフが何度もプロポーズに失敗する場面を作品に入れるのは、クリストフと観客に、彼が述べる結婚観、つまり「社会的に形成された幸せのカタチが推奨される世の中」への違和感を認知させるためではないかと考えています。

クリストフが用意しているプロポーズの言葉の具体的な内容はわかりませんが、彼はアナとの間にたくさん子供がほしいと願っているようです。

美女と野獣のガストンを思わせるこのマチズモは、おそらく意図的に入れられているのでしょう。

 

このことにアナに指摘されて気づくとなると、クリストフの葛藤は描かれないことになってしまいますので、おそらくクリストフ自身がそれに気づくようにするのではないかと私は思っています。

「Lost in the Woods」でその葛藤が描かれ、クリストフは自分の力で自らの殻を破るのではないでしょうか。

おそらくこの曲の後に、クリストフとアナがスヴェンに乗って森を走り抜けるシーンがありますが、途中からスヴェンの手綱を握っているのはアナです。

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これはなんとなくの予想ですが、クリストフは「Lost in the Woods」を経て、アナへのプロポーズをこの時にするのかもしれません。

その言葉は散々未遂に終わっていた今までのものとは違い、彼が本当に望んでいる「幸せ」についてでしょう。

そして自分の意思で、アナにスヴェンの手綱を委ねます。

実写版「アラジン」のカーペット・ライドのようなシーンです。

 

アナとクリストフの間には確かな愛と絆がありますが、二人が「結婚」という形を取るかは懐疑的です。

もしそうしてしまうと「ヘテロセクシャル」「結婚」という「フェアリーテイルのセオリー」に逆戻りしてしまいます。

そのような後退的なことはしないのではないかと、私はリー監督を信じています。

 

来月の今頃には答えが出ていますね。

FROZEN2がこれまでのファン、世界、そしてなにより子供たちの目にどのように映るのか、楽しみに待ちましょう。

2019/11/19追記 

・・・と、オラフとマントについて以前に書きましたが、オラフの「亡骸」は残らない可能性が強いようです。

その理由については後述します。

 

いよいよ3日後に公開が迫り、前日には先行上映がありますので(私は行きませんが)

私の映画予想は今回の追記にて終わろうと思います。

当たっている部分もあるかもしれませんし、当たっていない多々あるでしょう。

あくまでも映画のひとつの楽しみ方として、また皆さんの考察の一助として、このブログが少しでも力になれたら嬉しいです。

 

個人的にFROZEN2では、いくつかのアイコンが登場すると思っています。

具体的には先ほど紹介した「マント」の他、「旗」や「橋」などです。

これらは序盤から登場し、終盤で回収されるのではないかと考えています。

 

「旗」について

エルサは「Something Things Never Change」の歌詞の中で「アレンデールの旗ははためかせ続ける」と誓っていますが、(続けてアナ、移民を含めた国民のコーラスでも「我らの旗ははためき続ける」と歌われます)物語の序盤でその「国旗」が支柱から風で飛ばされるシーンが映されます。

そのすぐ後に街にやってくるパビーが見せる橋のビジョンもこの旗の二色で表されており、この二色が二つの民族を表していることがわかります。

王国の旗を掲げ続けると誓い、その旗が風で飛ばされて失われ、直後に旗が象徴する二つの民族が示されるつくりになっており、テンポ良く今後のストーリー展開が観客にわかるようになっています。

アレンデールの旗は再び掲げられるでしょうが、その時には新たな国旗になっているのではないかと個人的に期待しています。

紋章のクロッカスはアレンデールでは「生まれ変わり」を意味するのだそうです。

もしかすると、これから生まれ変わるアレンデールの象徴として、花を開く前の、今まさに土から顔を出したクロッカスの葉が紋章になるかもしれませんね。

 

「橋」について

エルサが第五エレメントのブリッジであるという意味でも「橋」は大事なアイコンですが、もう一つ、アレンデールに迫り来る洪水を効果的に表現するために、渓谷に架かる「橋」が描かれると思われます。
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洪水の速さや自然の圧倒的なパワー、人の営みや平和、そして真実がある日突然一転することを描写するために、いかにも「後ほど壊されます」というような橋を一行が渡ります。笑

 

「氷の城」と「雪の生き物たち」
道中意図的に見せるものは、橋以外にもあると思われます。

それは一作目でエルサがノースマウンテンに建てた「氷の城」です。

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マシュマロウとスノーギースたちが中で暮らしていることにも言及があるかもしれません。

というのも、カラースクリプトの洞窟のシーンに「snow melt」とあるからです。

オラフが解けるだけなら「Olaf melt」と書きそうですが、わざわざ「snow」と書かれているため、エルサが命を吹き込んだ全ての雪の生き物たちが一旦解けるのだと思われます。

これは間接的に、そして直感的に、アナにエルサの「死」を感じさせるでしょう。

オラフを失い、エルサの気配も消えてしまうのですから、アナが歌う「The Next Right Thing」の絶望感は凄いですね。

また、マシュマロウやギースたちが解けてしまう映像があれば、観客にも「命が消えてなくなる感覚」や「エルサの喪失」を感じさせる効果があるでしょう。

この時点ではアレンデールの人々にはエルサに起きたことがわからないと思いますので、アレンデール城の氷の装飾も解けた方が流れとしていいとは思うのですが、エルサがノックに乗ってアレンフィヨルドに現れる時はまだ城の装飾がありますし、「ice melt」になっていないので、氷 (エルサが魔法でつくりだしたものの中で命が宿っていないもの)が消えるかはわかりません。

 

ということで、オラフは「解ける」と思われますので、以前予想した「アナのマントがなくっている→オラフの亡骸が残り、弔いとしてかける」はなさそうです。

また公開された映像の中では、洞窟のシーンのオラフが元気な時点で既にアナがマントを着ていませんので、急流下り~洞窟の途中でマントはなくなるようです。

ただこのシーンは相当迷ったのではないかと思われます。

というのも、このシーンは同じ絵柄でマント着用と非着用が書籍によって混在しているからです。

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映画を観るまではわかりませんが、映像が最終とすると、マントは風に飛ばされてなくなるのかもしれません。

一作目の様々なシーンを回収していく作りのようなので(例えばクリストフが暖炉に薪をくべて火を大きくするのは、ハンスがアナを裏切り暖炉の火を消したシーンと対になっていると思われます)アナのマントも一作目のレリゴーの時のように風に飛ばされていくのかもしれません。 

 

さて、いよいよ公開が間近に迫ってきました。

今日までに書いたものは全て個人の予想に過ぎないので、中身を開けたら全く違った!ということも大いにあるでしょう。

どんな素敵な映画になっているか楽しみですね。

FROZEN2で描かれるのは「統合」か「自由」か、「ただいま」か「さようなら」か

【注意】この記事はFROZEN2のネタバレ、予想を含みます。

また、予想は個人的なものですのでご理解下さい。

 

 

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FROZEN2の予想については様々なものがあります。

こちらのツイートについて意見を求められたので、私の考えを書きたいと思います。

 

 

以下、fusetter(ふせったー)の内容です。 

Frozen2 アナと雪の女王2 結末には「何一つ同じなままではない」と監督が発言したが
多くが予想するシュガーラッシュやトイストーリー的展開ではなくむしろエルサが2つの世界を統合するという説も

結末を迎えると「何一つ同じなままではない」という監督の発言についてだが何が変化するのかは明確でない。
ここ最近立て続けにシュガーラッシュオンラインやトイストーリー4のことがあったから多くが予想するのはアナとエルサが離れ離れになりつつも「私たちは一つ」、と何らかのつながりを持ってそれぞれが生きていくという展開が多くの人によって予想されているが、
一緒であることが大事であるということ、異なる者同士が一つになることで私たちは強くなれるというメッセージであったことを考えると、やはりそれぞれの属したい、属すべき場所へ離れ離れになるというのは特にエルサの前作のような描写を踏まえると、逆に良いメッセージにならないのではないか、という意見も見られます。
https://frozenartscapes.tumblr.com/post/187280489268/big-change

確かに、エルサが自分と同じようなパワーを持っている精霊界?(ないし魔法の森?わかりませんが)へ行き、それでもアナと精神的な(あるいはそれ以上のなにかスピリチュアルな?)つながりを保ちながら、アナの中で生き続ける、みたいなことをやりかねません。
とはいえ、一作目で「異質な者」とされ、隔離され自己否定に陥らされ、恐れられ、迫害されたエルサが、似たような者同士(といっていいかわからないが)のところへ行き、そこで過ごすというのは、完全に「segregation:隔離」の象徴となり、結局「みんなちがってみんないい(文化的相対主義)」から転じた「所詮根本的に本質的に違うもの同士だから別々で当然(本質主義からくる文化的アパルトヘイト)」であるという認識を生む恐れがあり、それは描き方によっては非常に危険な気が私はします。

もちろん、それを超えるような描き方をディズニーがしてくる可能性はありますが、先ほど紹介したこの方はこんな予想をしています。

*(引用、和訳は私@westergaard2319)

Elsa brings magic back to Arendelle.
エルサがアレンデールに魔法を持って帰ってくる。

Like, it’s not just her going back - all of the people who were trapped in that forest, anyone else who might have powers, heck, maybe even the elemental spirits.
それも、ただエルサが戻るだけでなく、あの魔法の森に閉じ込められているすべての人々、パワーを持ってる人やもしかしたら自然現象の精霊たちまで含めてかも。

Rather than deciding to separate to “be with her own kind” she instead chooses to unite the two worlds.
彼女と似たような者同士と一緒に(アナたちと)離れ離れになることを決めるのではなく、むしろ二つの世界を統合することを選ぶのです。

Because that’s what she is: she’s a being of both worlds, one magic and one human.
だってそれがエルサ自身だから。エルサはどちらの世界にも属している。魔法の世界にも人間の世界にも。

Uniting both would be a pinnacle moment in her reign as Queen.
両方の世界を統合することで女王としての治世の絶頂期を迎えることになるだろう。

And rather than pushing a message of “go where you feel you belong even if it means separating from your family” it’d instead have the moral of “unity is what makes us stronger”.
「たとえ家族と離れ離れになったとしても、自分の属していると感じているところへ行きなさい」というメッセージを推し進めるよりもむしろ、「統合こそが私たちを強くする」という道徳的価値観を持てるのではないかと。

And personally, I think that’s a better message to be giving to kids.
そして個人的にも、私(この記事を書いた人)はそのほうが子どもたちへ与えるより良いメッセージになると思う。

*(引用、和訳終了)

 

まず、この意見はとてもよく理解できますし、このようなラストは十分あり得ると思います。

またそうなった場合も意義のあることであり、私たちにとって良いメッセージになると私も思います。

それを踏まえた上で、私の予想を書いていきたいと思います。

 

「統合」か「自由」か

 

一作目で「異質な者」とされ、隔離され自己否定に陥らされ、恐れられ、迫害されたエルサが、似たような者同士(といっていいかわからないが)のところへ行き、そこで過ごすというのは、完全に「segregation:隔離」の象徴となり、結局「みんなちがってみんないい(文化的相対主義)」から転じた「所詮根本的に本質的に違うもの同士だから別々で当然(本質主義からくる文化的アパルトヘイト)」であるという認識を生む恐れがあり、それは描き方によっては非常に危険な気が私はします。

 

この懸念は最もであり、私もこのような「隔離」を現在のディズニー・ピクサーが描くとは思っていません。

ただ、エルサが「自由」になること(ここでいうと、自分の所属に帰すること)が「隔離」にはならない、というのが私の考えです。

それを説明するにはまず、私が考える「魂」についてお話しする必要があります。

 

以前、美輪明宏さんが「魂」について「コップの水」に例えて説明されたことがあり、それが私の考えと非常に近かったので、ここで紹介させて頂きます。

 

コップの中に汚れた水が入っていると想像して下さい。

そのコップの中から、滴がひとつ、ふたつ・・・と外へと出て行きます。

この滴一つ一つが、私たち「個」です。

滴はこの世で様々な経験や感動を経て、少しだけ綺麗になってコップの中へ戻っていきます。

それを繰り返していくうちに、少しずつですがコップ全体の水は綺麗になっていきます。

このコップの水全体が「魂」であり「私たち」です。

ひどく汚れた状態でコップから出て行く滴もあれば、既に透明に近い状態で出て行く滴もあるでしょう。

経験によってとても澄んで戻ってくる場合もあれば、あまり綺麗にならずに戻ることもあるかもしれません。

コップの水は場所によって透明度は違うかもしれませんが、全体としては同じ水であり、滴はその一部分に過ぎず、「わたし」と「あなた」は地続きであり、そこに「隔たり」はないのです。

 

このことに気づき、真に感じられるようになることが、アドラー心理学でいうところの「共同体感覚」であると、私個人は捉えています。

 

また、2020年公開予定の「SOUL」では、この魂の世界について描くのではないかと個人的に予想しています。

「個」として出て行き、そこで学び「全体」へと還る。

そしてまた全体のため、つまり自分のためにどうするべきか課題を見つけ、魂の一部として出て行くのです。

 

私は「魂」をこのように捉えているので、エルサが自分の属する世界(コップの水の話でいえば、同じ純度の箇所)へ還ったとしても、それは「隔離」にはならず、むしろ「繋がり」を示す事象であると捉えています。

我々がこの先向かう場所にはエルサが待っていてくれ、またエルサと私たちは根本で同一であるということになるからです。

 

私たちは「違う」と思い込んでいるもののために、多くの困難を生み出しています。

「みんなちがってみんないい(文化的相対主義)」から転じた「所詮根本的に本質的に違うもの同士だから別々で当然(本質主義からくる文化的アパルトヘイト)」であるという認識

これはまさに、今、実感を持って、我々が過ごしている「世界」ではないでしょうか。

たかしに私たちは日々様々な「違い」に直面して生きています。

だからこそ生きることには気づきや喜びがあり、また葛藤も抱えます。

これは大切なことであり、その上で先程紹介した「統合」の物語は必要であるし、とても良いものだと私も思います。

まさにこの「統合」を扱っているのが「ズートピア」です。

 

 FROZEN2が「統合」ではなく「自由」を描くのではないかと予想される2つの理由

理由①「ズートピア

擬人化された様々な動物が共存する社会を描いた「ズートピア」は、我々の抱える「偏見」や「差別」をテーマにしています。

共同都市「ズートピア」は異なる文化・環境の4つのエリアが「統合」されており、「ガゼル」がその象徴的な役割をしています。

ズートピア」は単体で完成度の高い作品のように思えます。

ですのでFROZENとズートピア(エルサとガゼル)の役割を被らせてしまうよりは、別方向でのアプローチをするのではないかと私は思っています。

 

理由②「マレフィセント2」

FROZEN2に先立ち「マレフィセント2」の公開が予定されていますが、まさにこのマレフィセントの世界は「精霊界と人間界」であり、この異なる世界の「統合か決裂か」が主題になっています。

ここでテーマのみならず主人公(エルサとマレフィセント)の役割までも同じにしてしまうというのは、あまり得策であるようには思えません。

もちろん「異なるものとの統合」は、現実社会をより良くしていくために大切なメッセージなので重ねて強調する可能性はなくはありませんが、エルサはこの「異なる」という「思い込み」を壊しにくるのではないかと私は考えています。

 

前作では「他者と異なること」に悩んだエルサが魔法をコントロールできるようになり、最後は国民に歓迎されるという物語でした。

もちろん「ありのまま」でいいという肯定をエルサは私たちに示してくれましたし、魔法をコントロールするという条件付きで国民がエルサの存在を許したわけではないでしょう。

しかし構造的に「マイノリティーは社会に還元して受け入れられる」という解釈の余地を残しているのは、1作目で回収していないポイントです。

1作目に「不備」があったと言っているわけではありません。

1作目の時点ではあのラストがベターであったと私も思います。

(この解釈の余地ついては北村紗衣さんのインタビューで触れられています。ディズニー作品についてのインタビューではありませんが、とても興味深いお話です。

目からうろこのフェミニスト批評集 北村紗衣さん「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」|好書好日

 

「エルサはやっぱりみんなと違った」「だけど異なる者同士仲良くしよう」という「統合」をラストにしてしまうということは、「異質」は「存在する」と確定してしまいかねません。

また「統合」はズートピアマレフィセントなどの他作品でも扱われるテーマであるため、FROZEN2が「統合」を締めくくりに持ってくる可能性は低いのではないか、というのが、今のところ私の考えです。

 

この「統合」に対し「自由」という言葉を今回は使おうと思います。

個人的には自由よりも「拡張」に近く、トイ・ストーリー4でボー・ピープが「世界はこんなにも広い」とウッディや我々の視野を広げてくれた感覚に似て「私たちの存在はひと続きの帯のようなものである」という感覚です。

しかしエルサが「さようなら」をするなら、それは「自由」に近いでしょう。

 

「ただいま」か「さようなら」か

 

みなさんは、1作目のラストをどのように理解されているでしょうか。

「真実の愛」でアナの氷が解け、姉妹が抱擁します。

エルサを救うために自分を犠牲にしたアナは「I love you.」とエルサに告げます。

エルサはスケートリンクを作り、アナに氷のスケート靴を与えます。

 

 FROZEN2は「単なる続編ではない」とされています。

それはどういうことなのでしょうか。

 

FROZENにおける「自由」という言葉について、私の解釈を説明するために、過去に書いた記事の一部を紹介します。

また、ラストシーンではエルサがアナに「氷のスケート靴」を与えますが、これはアンデルセンの原作「雪の女王」の一場面でもあります。

作中のカイは寒さを感じることがありません。

原作的には、エルサがカイで、アナがゲルダです。

題名でもある雪の女王についてはあまり描写がなく、雪の女王の意図も不明なままです。

 

FROZENは原作の原型がほとんどないと言われることもありますが、私は重要な点は原作に沿って作られているのではないかと考えています。

以下は、個人的に原作と共通すると考えている点です。

 

アンデルセンの『雪の女王

あるとき天から「悪魔の鏡」が落ちてきてその破片がカイの目と心臓に刺さり、カイの心が凍ってしまいます。

雪の女王に出会ったカイは、家族やゲルダのことも記憶から消えてしまい、女王と共にゲルダのもとを去ってしまいます。

雪の女王の宮殿にいるカイは、女王の接吻により寒さを吸い取られてしまっているため、寒さを感じることがありません。

その状態で、カイは雪の女王から「永遠」という言葉を作り出すように言われます。

その言葉を作ることができれば、カイは「自由」になれると言うのです。

そしてカイが「永遠」という言葉をつくることができたなら「世界全体とスケート靴」を与えてくれる、と言いました。

 

原作での雪の女王は、カイに何かを強制したり、宮殿を出て行くカイを引き止めたりはしません。

「悪魔の鏡」も雪の女王の持ち物ではなく、あくまでも雪の女王はカイとゲルダの行動を傍観しているだけで、直接的な関与はしないのです。

 

FROZENでは最後に「雪の女王からスケート靴が与えられた」ため、カイ(エルサ)は「自由」となり、「永遠」を作り出すことができるようになった結果、「世界全体」を与えられたとも捉えることができます。

このためブロードウェイ版ではスケート靴を与えるシーンがない代わりに「Elsa,you are FREE.」とアナが言うのだと私は考えています。

 上記は「4エレメントとエルサ」の一部分です。 

moonboat.hatenablog.com

 またブロードウェイ版FROZENについては下の記事をご参照下さい。
ikyosuke.hatenablog.com

 

これはブロードウェイ版FROZENで、魔法がコントロールできるようになったエルサに対し、アナが唐突に「エルサ、あなたは自由よ!」と言う理由を、アンデルセンの原作と照らし合わせ、私なりに解釈したものです。

しかし舞台の流れの中で出てくるにはこの言葉は浮いているように思いますし、映画のラストで「愛!そう、愛よ!」と言うエルサの姿を見ると、なにがあそこまでの深い納得に結びついたのか理解しにくい部分があります。

 

FROZEN2が「単なる続編ではない」というのは「1作目の補足である」という意味ではないかと私は考えています。

ですので「FROZEN」という物語は、2作あって初めて完成するのです。

 

1作目で明らかになっていない点はいくつもあります。

王族とトロールとの関わりを記した書物や、エルサが繋がれた地下牢のあの特殊な手枷は、一体どのような理由で、いつからあるのでしょうか?

パビーが見せたヴィジョンや、両親の船旅の目的とは?

「I love you.」とエルサはアナに言わないままでしょうか?

「真実の愛」とは、アナがエルサを自分以上に大切に思うという、一方向のみで描かれて終わりでしょうか?

 

ここからは、FROZEN2のラスト、より具体的な「結末」について触れます。

もちろん、これは1人のファンとしての予想であり、内容を保証するものではありません。

しかし、新鮮な気持ちで公開を迎えたいという方は、お読み頂かない方がよいかと思います。

ご了承の上、お進み下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下の画像はInstagramで、FROZEN2の情報を以前から配信されているchocolatieyさんの投稿です。

 

www.instagram.com

 

こちらは作曲家クリストフベックさんによるFROZEN2の収録場面と思われます。

映画の映像は既に完成しているそうなので、この映像(モニターの下に2019年8月とあります)は「本番」のワンシーンであると考えられます。

注目したいのは姉妹の服装です。

予告編で流れるパンツスタイルではなく、1作目の旧ドレスに2人とも戻っているように見えます。

また、この印象的な抱擁は、まさに1作目のラストシーンのそれのようです。

投稿者のchocolatieyさんは、これは「Goodbye,Anna.」か「I'm back,Anna.」のどちらなのか、と書いています。

おそらくその理由は、楽譜と共に写っているノートに「still more of Olaf revival(さらに、オラフの帰還)」という文字があるからでしょう。

www.instagram.com

オラフが「戻ってくる」のであればエルサも「戻ってくる」、つまり「I'm back,Anna.(ただいま、アナ。)」のシーンではないか、ということです。

そうなると、最初に紹介した方の予想通り「結合」という結末になりそうです。

 

「ただいま」か「さようなら」か。

 

私は、その「どちらでも」あると、この画像を見て思いました。

 

「ただいま」か「さようなら」か、ではなく

「ただいま」と「さようなら」の結末なのではないかと思ったのです。

 

理由はやはり、このシーンが確実に1作目のラストと合致するように作られていることです。

またおそらくですが、FROZENは記録(記憶)についての物語です。

ですので、このシーンは「現在」であり「当時」のものであるかもしれません。

 

エルサとアナは戻ってくるのでしょう。

あの時の、あのシーンに。

そして今度はエルサから「I love you.」をアナに伝えます。

アナとエルサの「真実の愛」はふたつでひとつです。

そして「ただいま」と「愛している」を伝え「さようなら」で「自由」を迎えるとしたら・・・

1作目の不可思議な「空白」は2作目で補完され、ひとつの作品として成立するのではないでしょうか。

 

「FROZEN」は従来の「時を進める」物語なのではなく、「時を埋める」物語なのではないでしょうか。

 

 

公開まで、いよいよ3ヶ月を切りました。

「FROZEN」という物語は、世界にどんな風を吹かせてくれるのでしょう。

 

 

2019/9/2追記

 …と、昨日の時点まで予想していましたが、今日、以下のインタビューの存在を知りました。

https://apnews.com/60967f75c4324f5ea97157adf37dcb46

 

これはFROZEN2について、リー監督とイディナさんが答えているインタビューです。その中でも以下の部分は極めて重要であると思われます。

 

「続編を作ることはもともと全く考えていなかった」

エルサは世界で抑圧されている人たち、誤解されていると感じている人たちを解放していった

 しかしそのような人たちみんなから問われたのが

『なんでエルサに力があるの?』という質問でもっと語るべき話があると気づいた 

翻訳元 https://twitter.com/westergaard2319/status/1168385300671782912?s=21

 

このインタビューでFROZENの続編が作られることになった経緯が判明しました。

 

つまりこれは、エルサに共感したマイノリティーの人たちから多く寄せられた「なぜ私たちは特別なのか?」という問に答えるべく、2作目が制作されたということです。

あえてマイノリティーと書きましたが、抑圧や誤解を受けていると感じることは大なり小なりほとんどの人にあるでしょうから、そういう意味ではすべての人が「FROZEN」の当事者であり、だからこそエルサの歌うLet It Goは多くの人の心に響いたのでしょう。

 

しかしここではエルサが「特別」(=他と違う存在)であるという、マイノリティー的側面に絞って書いていきたいと思います。

 

人とは違う「マイノリティー」な部分を持つということは、時として社会の無理解や非寛容により、辛い思いを強いられることがあります。

そんなとき彼らは「なぜ自分は他の人と違うのだろう」と自分に問うかもしれません。

FROZEN2のエルサもまた、自らの力の秘密を知りたい、自分は何者なのかを知りたい、という思いに駆られ、旅に出るのでしょう。

マイノリティーの「なぜ」は内へ内へと向かい、その違いの「原因」を自分の中に見つけようとするかもしれません。

 

「FROZEN」が1作目で、説明の不十分だったところはどこでしょうか。

つまり制作陣が「まだ語るべきことがある」と感じた、その「語るべきこと」とは一体何でしょうか。

 

公開後、多くの人から寄せられたという『なんでエルサに力があるの?』という問い。

この質問には2つの意味があるのではないでしょうか。

ひとつは「不思議な力の正体」について、もうひとつは「なぜ人と違うのか」についてです。

この2つは1作目で詳しく説明されませんでした。

 

インタビューで明かされたように、FROZEN2がマイノリティーのこのような問いに対するアンサーとして作られたのならば、これまで私が書いてきた「神」や「魂」については主軸にはならないでしょう。

もっと私たちの現実社会にダイレクトに訴えてくるものにするはずです。

 

 

「マイノリティーはマジョリティーに還元して認められる」という解釈の余地が1作目に残っていること。

「別れ」を描けば人間を本質的に分けられるとしてしまう「隔離」になりかねず、「結合」を描けば「異質」は「存在する」という解釈を招きかねないという懸念があること。

エルサに「魔法」を捨てさせるのでは、「迎合」になってしまいます。

 

エルサはエルサのまま、マイノリティーはマイノリティーのまま、特別は特別のまま、「特別でなくなる」ためには・・・

 

その全てに答えるラストを、私なりに考えてみました。

 

マイノリティーの問いに答えるには、なによりもマジョリティーが自覚的にならなけばいけません。

エルサは「なぜ」を、ずっと自らに向けて問うてきました。

私たちも「なぜ」を、エルサの中に探そうとしています。

マイノリティーもマジョリティーも、「問題」はマイノリティーの中にあると考えがちです。

しかし私たちはきっと誰だって、どこかしら人とは違って「問題」があるはずです。

 

これは1作目の「愛さえあれば」(Fixer Upper)でも歌われています。

 

誰にでも問題があるのは当たり前のこと。お互いに支え合えばいい。

 

このブログで度々記事やツイートを引用させて頂いているwestergaardさんは、1作目で一番重要な歌詞を以下のように説明されています。

 

エルサの「問題」は「魔法」でした。それは良くも悪くもエルサを「特別」にしているものです。

その「魔法」は美しくもあり、危険もはらんでいます。

これは1作目のパビーの台詞やFrozen Heartの歌詞でも説明されています。

 

そしてエルサが持っているような、雪や氷を操る力ではないかもしれませんが、実は私たち全ての人間が「人とは違う特別な部分」を持っています。

つまり誰もがマイノリティーの部分を持っている、それが当たり前なのです。

それは時に「問題」も起こしますが、誰かの「助け」になることもあるでしょう。

内なるマイノリティーに気づくべきは、マジョリティーの方なのではないでしょうか。

私たちひとりひとりが、みんな「特別」で当たり前であること。

それに気づけば、きっと「魔法」も使えるはずです。

 

問題のある者が、唯一問題のある者を救える者である。

 

FROZEN2の最後に「魔法」を使うのは、群衆の方なのかもしれません。

1作目のパビーのビジョンで、エルサの「魔法」を恐れ「敵」となった群衆。

その群衆が、実はエルサの「魔法」も自分たちが抱えている問題と変わらないのだと理解し、エルサの「特別」な部分も含め、その存在を助け、望むのであれば。

それは十分にエルサを肯定する「魔法」になり得るのではないでしょうか。

エルサが最後に手に入れる「自由」とは、そのような意味なのかもしれません。

 

マイノリティーの問いに、マジョリティーに訴えることで答える。

「修理」が必要なのはマイノリティーの部分ではなく、マジョリティーの世界であること。

そしてマジョリティー自身が自分たちの誰もがマイノリティーの部分を持っているのだと気づき、問題を抱えている人を助け、また問題を抱えている自分も助けを得たいと願うなら…

私たちはこの私たちの世界を、きっと少しずつよくしていけるはずです。