FROZEN考察ブログ

映画FROZEN(アナと雪の女王)の考察ブログ

FROZEN2で描かれるのは「統合」か「自由」か、「ただいま」か「さようなら」か

【注意】この記事はFROZEN2のネタバレ、予想を含みます。

また、予想は個人的なものですのでご理解下さい。

 

 

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FROZEN2の予想については様々なものがあります。

こちらのツイートについて意見を求められたので、私の考えを書きたいと思います。

 

 

以下、fusetter(ふせったー)の内容です。 

Frozen2 アナと雪の女王2 結末には「何一つ同じなままではない」と監督が発言したが
多くが予想するシュガーラッシュやトイストーリー的展開ではなくむしろエルサが2つの世界を統合するという説も

結末を迎えると「何一つ同じなままではない」という監督の発言についてだが何が変化するのかは明確でない。
ここ最近立て続けにシュガーラッシュオンラインやトイストーリー4のことがあったから多くが予想するのはアナとエルサが離れ離れになりつつも「私たちは一つ」、と何らかのつながりを持ってそれぞれが生きていくという展開が多くの人によって予想されているが、
一緒であることが大事であるということ、異なる者同士が一つになることで私たちは強くなれるというメッセージであったことを考えると、やはりそれぞれの属したい、属すべき場所へ離れ離れになるというのは特にエルサの前作のような描写を踏まえると、逆に良いメッセージにならないのではないか、という意見も見られます。
https://frozenartscapes.tumblr.com/post/187280489268/big-change

確かに、エルサが自分と同じようなパワーを持っている精霊界?(ないし魔法の森?わかりませんが)へ行き、それでもアナと精神的な(あるいはそれ以上のなにかスピリチュアルな?)つながりを保ちながら、アナの中で生き続ける、みたいなことをやりかねません。
とはいえ、一作目で「異質な者」とされ、隔離され自己否定に陥らされ、恐れられ、迫害されたエルサが、似たような者同士(といっていいかわからないが)のところへ行き、そこで過ごすというのは、完全に「segregation:隔離」の象徴となり、結局「みんなちがってみんないい(文化的相対主義)」から転じた「所詮根本的に本質的に違うもの同士だから別々で当然(本質主義からくる文化的アパルトヘイト)」であるという認識を生む恐れがあり、それは描き方によっては非常に危険な気が私はします。

もちろん、それを超えるような描き方をディズニーがしてくる可能性はありますが、先ほど紹介したこの方はこんな予想をしています。

*(引用、和訳は私@westergaard2319)

Elsa brings magic back to Arendelle.
エルサがアレンデールに魔法を持って帰ってくる。

Like, it’s not just her going back - all of the people who were trapped in that forest, anyone else who might have powers, heck, maybe even the elemental spirits.
それも、ただエルサが戻るだけでなく、あの魔法の森に閉じ込められているすべての人々、パワーを持ってる人やもしかしたら自然現象の精霊たちまで含めてかも。

Rather than deciding to separate to “be with her own kind” she instead chooses to unite the two worlds.
彼女と似たような者同士と一緒に(アナたちと)離れ離れになることを決めるのではなく、むしろ二つの世界を統合することを選ぶのです。

Because that’s what she is: she’s a being of both worlds, one magic and one human.
だってそれがエルサ自身だから。エルサはどちらの世界にも属している。魔法の世界にも人間の世界にも。

Uniting both would be a pinnacle moment in her reign as Queen.
両方の世界を統合することで女王としての治世の絶頂期を迎えることになるだろう。

And rather than pushing a message of “go where you feel you belong even if it means separating from your family” it’d instead have the moral of “unity is what makes us stronger”.
「たとえ家族と離れ離れになったとしても、自分の属していると感じているところへ行きなさい」というメッセージを推し進めるよりもむしろ、「統合こそが私たちを強くする」という道徳的価値観を持てるのではないかと。

And personally, I think that’s a better message to be giving to kids.
そして個人的にも、私(この記事を書いた人)はそのほうが子どもたちへ与えるより良いメッセージになると思う。

*(引用、和訳終了)

 

まず、この意見はとてもよく理解できますし、このようなラストは十分あり得ると思います。

またそうなった場合も意義のあることであり、私たちにとって良いメッセージになると私も思います。

それを踏まえた上で、私の予想を書いていきたいと思います。

 

「統合」か「自由」か

 

一作目で「異質な者」とされ、隔離され自己否定に陥らされ、恐れられ、迫害されたエルサが、似たような者同士(といっていいかわからないが)のところへ行き、そこで過ごすというのは、完全に「segregation:隔離」の象徴となり、結局「みんなちがってみんないい(文化的相対主義)」から転じた「所詮根本的に本質的に違うもの同士だから別々で当然(本質主義からくる文化的アパルトヘイト)」であるという認識を生む恐れがあり、それは描き方によっては非常に危険な気が私はします。

 

この懸念は最もであり、私もこのような「隔離」を現在のディズニー・ピクサーが描くとは思っていません。

ただ、エルサが「自由」になること(ここでいうと、自分の所属に帰すること)が「隔離」にはならない、というのが私の考えです。

それを説明するにはまず、私が考える「魂」についてお話しする必要があります。

 

以前、美輪明宏さんが「魂」について「コップの水」に例えて説明されたことがあり、それが私の考えと非常に近かったので、ここで紹介させて頂きます。

 

コップの中に汚れた水が入っていると想像して下さい。

そのコップの中から、滴がひとつ、ふたつ・・・と外へと出て行きます。

この滴一つ一つが、私たち「個」です。

滴はこの世で様々な経験や感動を経て、少しだけ綺麗になってコップの中へ戻っていきます。

それを繰り返していくうちに、少しずつですがコップ全体の水は綺麗になっていきます。

このコップの水全体が「魂」であり「私たち」です。

ひどく汚れた状態でコップから出て行く滴もあれば、既に透明に近い状態で出て行く滴もあるでしょう。

経験によってとても澄んで戻ってくる場合もあれば、あまり綺麗にならずに戻ることもあるかもしれません。

コップの水は場所によって透明度は違うかもしれませんが、全体としては同じ水であり、滴はその一部分に過ぎず、「わたし」と「あなた」は地続きであり、そこに「隔たり」はないのです。

 

このことに気づき、真に感じられるようになることが、アドラー心理学でいうところの「共同体感覚」であると、私個人は捉えています。

 

また、2020年公開予定の「SOUL」では、この魂の世界について描くのではないかと個人的に予想しています。

「個」として出て行き、そこで学び「全体」へと還る。

そしてまた全体のため、つまり自分のためにどうするべきか課題を見つけ、魂の一部として出て行くのです。

 

私は「魂」をこのように捉えているので、エルサが自分の属する世界(コップの水の話でいえば、同じ純度の箇所)へ還ったとしても、それは「隔離」にはならず、むしろ「繋がり」を示す事象であると捉えています。

我々がこの先向かう場所にはエルサが待っていてくれ、またエルサと私たちは根本で同一であるということになるからです。

 

私たちは「違う」と思い込んでいるもののために、多くの困難を生み出しています。

「みんなちがってみんないい(文化的相対主義)」から転じた「所詮根本的に本質的に違うもの同士だから別々で当然(本質主義からくる文化的アパルトヘイト)」であるという認識

これはまさに、今、実感を持って、我々が過ごしている「世界」ではないでしょうか。

たかしに私たちは日々様々な「違い」に直面して生きています。

だからこそ生きることには気づきや喜びがあり、また葛藤も抱えます。

これは大切なことであり、その上で先程紹介した「統合」の物語は必要であるし、とても良いものだと私も思います。

まさにこの「統合」を扱っているのが「ズートピア」です。

 

 FROZEN2が「統合」ではなく「自由」を描くのではないかと予想される2つの理由

理由①「ズートピア

擬人化された様々な動物が共存する社会を描いた「ズートピア」は、我々の抱える「偏見」や「差別」をテーマにしています。

共同都市「ズートピア」は異なる文化・環境の4つのエリアが「統合」されており、「ガゼル」がその象徴的な役割をしています。

ズートピア」は単体で完成度の高い作品のように思えます。

ですのでFROZENとズートピア(エルサとガゼル)の役割を被らせてしまうよりは、別方向でのアプローチをするのではないかと私は思っています。

 

理由②「マレフィセント2」

FROZEN2に先立ち「マレフィセント2」の公開が予定されていますが、まさにこのマレフィセントの世界は「精霊界と人間界」であり、この異なる世界の「統合か決裂か」が主題になっています。

ここでテーマのみならず主人公(エルサとマレフィセント)の役割までも同じにしてしまうというのは、あまり得策であるようには思えません。

もちろん「異なるものとの統合」は、現実社会をより良くしていくために大切なメッセージなので重ねて強調する可能性はなくはありませんが、エルサはこの「異なる」という「思い込み」を壊しにくるのではないかと私は考えています。

 

前作では「他者と異なること」に悩んだエルサが魔法をコントロールできるようになり、最後は国民に歓迎されるという物語でした。

もちろん「ありのまま」でいいという肯定をエルサは私たちに示してくれましたし、魔法をコントロールするという条件付きで国民がエルサの存在を許したわけではないでしょう。

しかし構造的に「マイノリティーは社会に還元して受け入れられる」という解釈の余地を残しているのは、1作目で回収していないポイントです。

1作目に「不備」があったと言っているわけではありません。

1作目の時点ではあのラストがベターであったと私も思います。

(この解釈の余地ついては北村紗衣さんのインタビューで触れられています。ディズニー作品についてのインタビューではありませんが、とても興味深いお話です。

目からうろこのフェミニスト批評集 北村紗衣さん「お砂糖とスパイスと爆発的な何か」|好書好日

 

「エルサはやっぱりみんなと違った」「だけど異なる者同士仲良くしよう」という「統合」をラストにしてしまうということは、「異質」は「存在する」と確定してしまいかねません。

また「統合」はズートピアマレフィセントなどの他作品でも扱われるテーマであるため、FROZEN2が「統合」を締めくくりに持ってくる可能性は低いのではないか、というのが、今のところ私の考えです。

 

この「統合」に対し「自由」という言葉を今回は使おうと思います。

個人的には自由よりも「拡張」に近く、トイ・ストーリー4でボー・ピープが「世界はこんなにも広い」とウッディや我々の視野を広げてくれた感覚に似て「私たちの存在はひと続きの帯のようなものである」という感覚です。

しかしエルサが「さようなら」をするなら、それは「自由」に近いでしょう。

 

「ただいま」か「さようなら」か

 

みなさんは、1作目のラストをどのように理解されているでしょうか。

「真実の愛」でアナの氷が解け、姉妹が抱擁します。

エルサを救うために自分を犠牲にしたアナは「I love you.」とエルサに告げます。

エルサはスケートリンクを作り、アナに氷のスケート靴を与えます。

 

 FROZEN2は「単なる続編ではない」とされています。

それはどういうことなのでしょうか。

 

FROZENにおける「自由」という言葉について、私の解釈を説明するために、過去に書いた記事の一部を紹介します。

また、ラストシーンではエルサがアナに「氷のスケート靴」を与えますが、これはアンデルセンの原作「雪の女王」の一場面でもあります。

作中のカイは寒さを感じることがありません。

原作的には、エルサがカイで、アナがゲルダです。

題名でもある雪の女王についてはあまり描写がなく、雪の女王の意図も不明なままです。

 

FROZENは原作の原型がほとんどないと言われることもありますが、私は重要な点は原作に沿って作られているのではないかと考えています。

以下は、個人的に原作と共通すると考えている点です。

 

アンデルセンの『雪の女王

あるとき天から「悪魔の鏡」が落ちてきてその破片がカイの目と心臓に刺さり、カイの心が凍ってしまいます。

雪の女王に出会ったカイは、家族やゲルダのことも記憶から消えてしまい、女王と共にゲルダのもとを去ってしまいます。

雪の女王の宮殿にいるカイは、女王の接吻により寒さを吸い取られてしまっているため、寒さを感じることがありません。

その状態で、カイは雪の女王から「永遠」という言葉を作り出すように言われます。

その言葉を作ることができれば、カイは「自由」になれると言うのです。

そしてカイが「永遠」という言葉をつくることができたなら「世界全体とスケート靴」を与えてくれる、と言いました。

 

原作での雪の女王は、カイに何かを強制したり、宮殿を出て行くカイを引き止めたりはしません。

「悪魔の鏡」も雪の女王の持ち物ではなく、あくまでも雪の女王はカイとゲルダの行動を傍観しているだけで、直接的な関与はしないのです。

 

FROZENでは最後に「雪の女王からスケート靴が与えられた」ため、カイ(エルサ)は「自由」となり、「永遠」を作り出すことができるようになった結果、「世界全体」を与えられたとも捉えることができます。

このためブロードウェイ版ではスケート靴を与えるシーンがない代わりに「Elsa,you are FREE.」とアナが言うのだと私は考えています。

 上記は「4エレメントとエルサ」の一部分です。 

moonboat.hatenablog.com

 またブロードウェイ版FROZENについては下の記事をご参照下さい。
ikyosuke.hatenablog.com

 

これはブロードウェイ版FROZENで、魔法がコントロールできるようになったエルサに対し、アナが唐突に「エルサ、あなたは自由よ!」と言う理由を、アンデルセンの原作と照らし合わせ、私なりに解釈したものです。

しかし舞台の流れの中で出てくるにはこの言葉は浮いているように思いますし、映画のラストで「愛!そう、愛よ!」と言うエルサの姿を見ると、なにがあそこまでの深い納得に結びついたのか理解しにくい部分があります。

 

FROZEN2が「単なる続編ではない」というのは「1作目の補足である」という意味ではないかと私は考えています。

ですので「FROZEN」という物語は、2作あって初めて完成するのです。

 

1作目で明らかになっていない点はいくつもあります。

王族とトロールとの関わりを記した書物や、エルサが繋がれた地下牢のあの特殊な手枷は、一体どのような理由で、いつからあるのでしょうか?

パビーが見せたヴィジョンや、両親の船旅の目的とは?

「I love you.」とエルサはアナに言わないままでしょうか?

「真実の愛」とは、アナがエルサを自分以上に大切に思うという、一方向のみで描かれて終わりでしょうか?

 

ここからは、FROZEN2のラスト、より具体的な「結末」について触れます。

もちろん、これは1人のファンとしての予想であり、内容を保証するものではありません。

しかし、新鮮な気持ちで公開を迎えたいという方は、お読み頂かない方がよいかと思います。

ご了承の上、お進み下さい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

下の画像はInstagramで、FROZEN2の情報を以前から配信されているchocolatieyさんの投稿です。

 

www.instagram.com

 

こちらは作曲家クリストフベックさんによるFROZEN2の収録場面と思われます。

映画の映像は既に完成しているそうなので、この映像(モニターの下に2019年8月とあります)は「本番」のワンシーンであると考えられます。

注目したいのは姉妹の服装です。

予告編で流れるパンツスタイルではなく、1作目の旧ドレスに2人とも戻っているように見えます。

また、この印象的な抱擁は、まさに1作目のラストシーンのそれのようです。

投稿者のchocolatieyさんは、これは「Goodbye,Anna.」か「I'm back,Anna.」のどちらなのか、と書いています。

おそらくその理由は、楽譜と共に写っているノートに「still more of Olaf revival(さらに、オラフの帰還)」という文字があるからでしょう。

www.instagram.com

オラフが「戻ってくる」のであればエルサも「戻ってくる」、つまり「I'm back,Anna.(ただいま、アナ。)」のシーンではないか、ということです。

そうなると、最初に紹介した方の予想通り「結合」という結末になりそうです。

 

「ただいま」か「さようなら」か。

 

私は、その「どちらでも」あると、この画像を見て思いました。

 

「ただいま」か「さようなら」か、ではなく

「ただいま」と「さようなら」の結末なのではないかと思ったのです。

 

理由はやはり、このシーンが確実に1作目のラストと合致するように作られていることです。

またおそらくですが、FROZENは記録(記憶)についての物語です。

ですので、このシーンは「現在」であり「当時」のものであるかもしれません。

 

エルサとアナは戻ってくるのでしょう。

あの時の、あのシーンに。

そして今度はエルサから「I love you.」をアナに伝えます。

アナとエルサの「真実の愛」はふたつでひとつです。

そして「ただいま」と「愛している」を伝え「さようなら」で「自由」を迎えるとしたら・・・

1作目の不可思議な「空白」は2作目で補完され、ひとつの作品として成立するのではないでしょうか。

 

「FROZEN」は従来の「時を進める」物語なのではなく、「時を埋める」物語なのではないでしょうか。

 

 

公開まで、いよいよ3ヶ月を切りました。

「FROZEN」という物語は、世界にどんな風を吹かせてくれるのでしょう。

 

 

2019/9/2追記

 …と、昨日の時点まで予想していましたが、今日、以下のインタビューの存在を知りました。

https://apnews.com/60967f75c4324f5ea97157adf37dcb46

 

これはFROZEN2について、リー監督とイディナさんが答えているインタビューです。その中でも以下の部分は極めて重要であると思われます。

 

「続編を作ることはもともと全く考えていなかった」

エルサは世界で抑圧されている人たち、誤解されていると感じている人たちを解放していった

 しかしそのような人たちみんなから問われたのが

『なんでエルサに力があるの?』という質問でもっと語るべき話があると気づいた 

翻訳元 https://twitter.com/westergaard2319/status/1168385300671782912?s=21

 

このインタビューでFROZENの続編が作られることになった経緯が判明しました。

 

つまりこれは、エルサに共感したマイノリティーの人たちから多く寄せられた「なぜ私たちは特別なのか?」という問に答えるべく、2作目が制作されたということです。

あえてマイノリティーと書きましたが、抑圧や誤解を受けていると感じることは大なり小なりほとんどの人にあるでしょうから、そういう意味ではすべての人が「FROZEN」の当事者であり、だからこそエルサの歌うLet It Goは多くの人の心に響いたのでしょう。

 

しかしここではエルサが「特別」(=他と違う存在)であるという、マイノリティー的側面に絞って書いていきたいと思います。

 

人とは違う「マイノリティー」な部分を持つということは、時として社会の無理解や非寛容により、辛い思いを強いられることがあります。

そんなとき彼らは「なぜ自分は他の人と違うのだろう」と自分に問うかもしれません。

FROZEN2のエルサもまた、自らの力の秘密を知りたい、自分は何者なのかを知りたい、という思いに駆られ、旅に出るのでしょう。

マイノリティーの「なぜ」は内へ内へと向かい、その違いの「原因」を自分の中に見つけようとするかもしれません。

 

「FROZEN」が1作目で、説明の不十分だったところはどこでしょうか。

つまり制作陣が「まだ語るべきことがある」と感じた、その「語るべきこと」とは一体何でしょうか。

 

公開後、多くの人から寄せられたという『なんでエルサに力があるの?』という問い。

この質問には2つの意味があるのではないでしょうか。

ひとつは「不思議な力の正体」について、もうひとつは「なぜ人と違うのか」についてです。

この2つは1作目で詳しく説明されませんでした。

 

インタビューで明かされたように、FROZEN2がマイノリティーのこのような問いに対するアンサーとして作られたのならば、これまで私が書いてきた「神」や「魂」については主軸にはならないでしょう。

もっと私たちの現実社会にダイレクトに訴えてくるものにするはずです。

 

 

「マイノリティーはマジョリティーに還元して認められる」という解釈の余地が1作目に残っていること。

「別れ」を描けば人間を本質的に分けられるとしてしまう「隔離」になりかねず、「結合」を描けば「異質」は「存在する」という解釈を招きかねないという懸念があること。

エルサに「魔法」を捨てさせるのでは、「迎合」になってしまいます。

 

エルサはエルサのまま、マイノリティーはマイノリティーのまま、特別は特別のまま、「特別でなくなる」ためには・・・

 

その全てに答えるラストを、私なりに考えてみました。

 

マイノリティーの問いに答えるには、なによりもマジョリティーが自覚的にならなけばいけません。

エルサは「なぜ」を、ずっと自らに向けて問うてきました。

私たちも「なぜ」を、エルサの中に探そうとしています。

マイノリティーもマジョリティーも、「問題」はマイノリティーの中にあると考えがちです。

しかし私たちはきっと誰だって、どこかしら人とは違って「問題」があるはずです。

 

これは1作目の「愛さえあれば」(Fixer Upper)でも歌われています。

 

誰にでも問題があるのは当たり前のこと。お互いに支え合えばいい。

 

このブログで度々記事やツイートを引用させて頂いているwestergaardさんは、1作目で一番重要な歌詞を以下のように説明されています。

 

エルサの「問題」は「魔法」でした。それは良くも悪くもエルサを「特別」にしているものです。

その「魔法」は美しくもあり、危険もはらんでいます。

これは1作目のパビーの台詞やFrozen Heartの歌詞でも説明されています。

 

そしてエルサが持っているような、雪や氷を操る力ではないかもしれませんが、実は私たち全ての人間が「人とは違う特別な部分」を持っています。

つまり誰もがマイノリティーの部分を持っている、それが当たり前なのです。

それは時に「問題」も起こしますが、誰かの「助け」になることもあるでしょう。

内なるマイノリティーに気づくべきは、マジョリティーの方なのではないでしょうか。

私たちひとりひとりが、みんな「特別」で当たり前であること。

それに気づけば、きっと「魔法」も使えるはずです。

 

問題のある者が、唯一問題のある者を救える者である。

 

FROZEN2の最後に「魔法」を使うのは、群衆の方なのかもしれません。

1作目のパビーのビジョンで、エルサの「魔法」を恐れ「敵」となった群衆。

その群衆が、実はエルサの「魔法」も自分たちが抱えている問題と変わらないのだと理解し、エルサの「特別」な部分も含め、その存在を助け、望むのであれば。

それは十分にエルサを肯定する「魔法」になり得るのではないでしょうか。

エルサが最後に手に入れる「自由」とは、そのような意味なのかもしれません。

 

マイノリティーの問いに、マジョリティーに訴えることで答える。

「修理」が必要なのはマイノリティーの部分ではなく、マジョリティーの世界であること。

そしてマジョリティー自身が自分たちの誰もがマイノリティーの部分を持っているのだと気づき、問題を抱えている人を助け、また問題を抱えている自分も助けを得たいと願うなら…

私たちはこの私たちの世界を、きっと少しずつよくしていけるはずです。